明治8年(1875年)に登場した、特殊な山笠。
明治政府は封建制を打破する目的で封建制度の撤廃に伴う新政による法組織を構築。明治5年(1872年)11月、県令で「山笠、松ばやし其の他作りもの類大小にかかわらず一切まかりならぬ」と、博多祇園山笠と博多松囃子に禁止令を出し、博多の人は山笠と松囃子を行う事が出来なくなった。
博多人は禁止令撤廃を願い出続けていたのだが、受け入れられることがなかった。
しかし、明治8年(1875年)に突然許可が下りたのである。許可が下りたのは6月13日の夕方。15日早朝の追い山までに舁き山を準備する時間がないため、各流の当番町は窮地の策として、徹夜で一体の人形に浴衣を着せ、生き松を添えただけの簡素な山を作り上げた。これが通称「ゆかた山」と呼ばれる山笠である。
博多人は14日に飾り付け、15日に一回だけ舁いて久しぶりの山笠の空気を味わった。
その時の、各標題は以下の通り。久々の山笠に皆歓喜に沸いた様子がうかがい知れる。
(一)山笠再興誉
(二)神祭復古歓
(三)山柵維興歓
(五)官許土俗歓
(六)山柵更始昌
だが、この翌年の明治9年(1876年)からは再度禁止となってしまった。
明治15年、山笠の時期に「注連縄を張り、敷町神祭と書いた額や、幣や榊を立てた臺(※台)を舁いた」と記録されており、その翌年の明治16年に本格的な山笠再興となった。
1961年(昭和36年)、博多祇園山笠振興会が県無形文化財としての記念事業の一環で、櫛田神社にゆかた山笠を建てた。これは初代振興会会長の落石栄吉氏が著書『博多山笠史談』を書く資料に櫛田神社倉庫に保管されていた山笠絵馬を探ったところ、中から『ゆかた山笠』という珍しい絵馬が現われた。丁度前年、約700年前の「旗差し山」を再現したので、今度はこの「ゆかた山」を86年ぶりに再現させることになった。
明治8年当時は突貫での間に合わせの飾りだったが、昭和36年の「ゆかた山は」絵馬をもとに新しい「ゆかた山」を再現。表の標題は「羽衣松天女舞曲」、見送りは「孝心天養老誇」。人形は高尾八十二人形師が担当した。表には生松を飾り、人形にはゆかた・・・でなく似合いの衣装をつけるが、全体のデザインはゆかた山笠の精神を生かしてすっきり仕上げたらしい。