差し山笠の飾りの最上部には「大神宮」「櫛田宮」「祗園宮」の三神額が、取り付けられています。非常に目立つので、遠方からでも一目で差し山笠とわかります。
博多祇園山笠といえば真っ先に思い浮かぶのが雄壮豪快な「舁き山(かきやま)」と絢爛豪華な「飾り山」の姿。ここでは、古来からの伝統を今に受け継ぐ「祭りの主役」、舁き山と飾り山について解説します。
明治時代の山笠というものの美しさを知った。これ艷漢の元じゃないかな。電柱が出来る前までは、こんなにも高かったんだって。 pic.twitter.com/XRY5wus4Km
— おいたん/coda(コーダ) (@heresy_c) 2014年1月14日
山笠の歴史でも触れましたが、元々山笠には「飾り山」「舁き山」の区別はなく、高さ10メートルをを超える、現在で言う飾り山サイズの山笠が博多の町を駆け抜けていました。しかし、電信架線の整備により山笠が電線を切断してしまう事故が相次ぎ、祭事存続のためにやむなく山笠の高さを低くしたことから、現在の舁き山の形が定着しました。
現在では、実際に博多の町を駆け抜ける「舁き山」と、豪華絢爛な「飾り山」はきれいに区別され、「動の山笠」「静の山笠」としてそれぞれの魅力を伝えています。
山にはそれぞれ番号が振られており、奇数番の山笠が「差し山」(または「差し山笠」)、偶数番の山笠が「堂山」(または「堂山笠」)と呼ばれて区別されています。一般的に、差し山笠には雄壮な飾り、堂山笠には優美な飾りを飾るのがしきたりで、飾り山、舁き山ともこの約束事に従って飾り付けがされています。
古い文献「櫛田社鑑」によれば、「宝永5年(1708年)春3月公命により一番、三番、五番を修羅(しゅら)とし、二番、四番、六番を鬘(かずら)につくらしめ給う」とあります。分かりやすく言うと「一番、三番、五番を修羅のようなな男らしい飾りに、二番、四番、六番をかずら(かつら=女性)のような優美な飾りに」ということになります。この事から、差し山と堂山は別名「男山」「女山」とも呼ばれています。
差し山笠の飾りの最上部には「大神宮」「櫛田宮」「祗園宮」の三神額が、取り付けられています。非常に目立つので、遠方からでも一目で差し山笠とわかります。
堂山笠の飾りの最上部にはお堂(屋形)が取付けられています。飾り山笠は上記写真の通り非常にわかりやすい「お堂」が飾られていますが、舁き山の場合、表題によっては明確な「お堂」がない場合もあります。その場合は、飾りの最上部に「三神額」が無ければ堂山笠と見て良いでしょう。
舁き山は、その名の通り「舁く(担ぐ)」ための山笠です。前述の通り、現在の舁き山は古来の山笠と比較して半分以下の高さとなっていますが、それでも総重量は約1トンもあり、20数名の舁き手達によって博多の町を疾走するその様は、まさに豪快雄壮な「男の祭り」そのものです。山笠の土台である「山笠台」は釘を一本も使わず、麻縄と部材のみで組み上げられています。
舁き山に飾られる人形はその年の「流の顔」となるため、人形師にかかる責任も重大です。毎年熟練の人形師が精魂込めて作り上げており、舁き山の人形を任されるということは一流の人形師として認められた証でもあります。舁き山は「人形師同士の腕の競い合い」でもあるわけです。
舁き山笠を舁くのは、通称『七流(しちながれ)』と呼ばれる千代流・恵比須流・土居流・大黒流
・東流・中洲流・西流の各流で、山笠のクライマックス「追い山」では精鋭の舁き手達が「櫛田入り」を行い、山笠を奉納します。(順番は、平成24年度の番号順)
古来の山笠の姿を今に伝える飾り山笠。大きなもので13メートル近い高さになりますが厳密な高さの決まりはなく、設置場所の状況によって大きさはまちまちです。ですが飾り山も舁き山と同じようように、山笠の土台である「山笠台」は釘を一本も使わず、麻縄と部材のみで組み上げられています。
熟練の人形師によって細部まで丁寧に作り込まれた飾りは、まさに「芸術品」と言って良いもので、毎年、その見事な出来栄えで見る人を魅了しています。
飾りの表題は古くからの逸話や歴史上の人物、縁起の良いとされる題材などを中心に決定されますが、近年はでは「見送り」に人気アニメやドラマ、西洋の童話などを題材にした表題を取り入れることも多くなってきました。
また、「博多部の祭り」として地域外への進出に消極的だった博多山笠も、現在では天神地区や地行浜地区に進出し、現在では合計14本もの飾り山笠が建てられるようになりました。
登場当初は否定的な意見も多かったこれら「近代的な表題」や「博多部以外への進出」も現在ではすっかり定着し、「テーマの幅を広げた」「山笠のPRに大いに役立っている」として一定の評価を得ています。
この新しいものを柔軟に取り入れる姿勢こそが博多祇園山笠の大きな特徴であり、過去に何度も訪れた「山笠消滅の危機」を切り抜け、770年以上もの間祭りを存続させた大きな理由でもあります。