1966年の町界町名整理により旧東町流を中心に、呉服町流や櫛田流の一部などを加えて新たに発足した比較的新しい流です。
水法被は背中に「東」一文字が入ったものに統一され、所属する町名は肩章に書かれています。また、長法被も縦しま模様の統一のものを着用します。
参加はほとんど旧町名単位で、他の流のように「当番町」を作らず流全体で費用を負担する「流当番制」を採用しています。
昭和57年から飾り山も復活し、呉服町交差点の南東角に山小屋が建設されていました。
2019年、自然災害に対する安全面を考慮し、飾り山は三井ビジネスセンタービルのロビーに移動。舁き山は、飾り山のあった呉服町交差点の南東角に山小屋を建てるようになりました。これによりこれまで舁き山と飾り山とで山笠の土台部分である"山笠台"を共用していましたが、この年よりそれぞれの山笠台を持つようになりました。
信濃国(今の長野県)の戦国大名、真田信繁(通称幸村)は豊臣家に生涯忠誠を誓った「義」の人であり、十文字槍を用い「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評された、知勇兼備の将で国民的ヒーローです。 旗印である六文銭は冥銭を表し、亡くなった人を葬る時に棺に納める六文銭を意味し、三途の川の渡し賃の事です。これを旗印にする事は「不惜身命(自らの体や命も顧みない事)」を意味すると言われています。 コロナ禍のあと、世の中が動き始める時に、東流も一致団結し、無事に山笠を奉納して、博多の街が活気を取り戻す手助けをしたいと願っております。
[人形師:白水英章]
福岡市営地下鉄「呉服町」より徒歩1分、「櫛田神社前」より徒歩15分
西鉄バス停「呉服町」より徒歩1分
信濃国(今の長野県)の戦国大名、真田信繁(通称幸村)は、大坂冬の陣・夏の陣において、真田丸と呼ばれる出城を築き、少数ながらも豊臣軍の中心となって大活躍をいたしました。 この際、幸村は『猿飛佐助』『霧隠才蔵』などで有名な、忍者集団の「真田十勇士」を結成し、それぞれの得意分野を生かして協力して戦う事で、歴史に名を残す戦功を挙げました。 真田軍は鎧を赤備えに統一し、自由奔放で有りながらも真面目に仕事をこなす家訓である「天真爛漫」な家風を象徴する軍でした。幸村は、リーダーシップを発揮して、団結協力の精神を重んじました。これは『東』の統一法被にて奉納する、東流の理念とも共鳴しております。
[人形師:白水英章]
[人形師:白水英章]
福岡市営地下鉄「呉服町」より徒歩1分
西鉄バス停「呉服町」より徒歩1分
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