西日本一の歓楽街・中洲地域を地盤とし、昭和24年に興された比較的新しい流です。
中洲一丁目〜中洲五丁目の五ヵ町(新町名)で構成しており、5年に1回、当番町が回ってくる仕組みとなっています。
毎年、高さ約13メートルの本格的な「飾り山笠」を建設しており、西日本一の歓楽街という土地柄、飾り山笠は夜遅くまでライトアップされており、多くの人の目を楽しませます。
山笠台は舁き山笠・飾り山笠兼用で、舁き山笠の舁き出し時には引っ張り出して舁き山笠用の飾りを載せています。
『粋で強くて気風がよくて男の中の男』と称され幕末の江戸庶民の憧れの的であった新門辰五郎。を組の頭で『十番組』頭領として約二千人の手下を抱え町火消として活躍した。
晩年は徳川慶喜公に重用されその身辺警護にあたった。その名声は歌舞伎や講談等で後世まで語り継がれています。災害時に現場に赴きたゆまぬ努力をされている方々に想いを寄せながら制作致しました。
[人形師:溝口堂央]
福岡市営地下鉄「中洲川端」より徒歩5分、「櫛田神社前」より徒歩10分
西鉄バス停「東中洲」より徒歩3分
永禄三年五月十九日(一五六〇年六月十二日)織田信長軍と今川義元軍との合戦、東海の覇者今川義元が上洛の足がかりとして尾張の織田領内に侵攻今川軍(二万五千)は順調に数々の戦い勝利し大いに悦び桶狭間で休息をとっていた。
昼すぎ視界を妨げる程の豪雨が降り織田軍(一千)はこれに乗じて手薄な義元軍に奇襲をかけた。油断していた今川軍は混乱し逃走。今川義元は自ら太刀を抜いて応戦したが、毛利新介に討ち取られた。大将を失った今川軍は敗走し不利といわれた戦を征し天下に織田信長の名が轟いた合戦であった。
[人形師:溝口堂央]
戦乱の世に生まれ、幾多の困難に見舞われながらも自らの手によって天下一の絵師へと登り詰めた長谷川等伯(一五三九~一六一〇)。現在の石川県七尾市に生まれた長谷川等伯は、はじめは春信(はるのぶ)と名乗り、主に仏画を描いて活躍しました。やがて三十代で京に上ると仏画、肖像画、山水花鳥画などさまざまな題材に取り組み、時に繊細に時に大胆に筆を走らせ時の関白豊臣秀吉、千利休らに重用されて時代の寵児となりました。また同時代に安土城や大阪城の障壁画を描いた稀代の天才、狩野永徳というライバルの存在も等伯の人生に大きな影響を与えました。
その後、水墨画の最高峰と称えられる国宝「松林図屏風」を描き、七十二歳で没するまでに描き続けた長谷川等伯の人生は現代に生きる私たちにも勇気と希望を与えてくれます。今年の一月一日に起きた能登半島地震による被災地の復興はまだ叶っていませんが、能登の生んだ天才に焦点を当て遠く博多の地から被災地に対し微力ながらエールを送る思いも込めて飾り山笠を制作、奉納させていただく所存です。
[人形師:中村弘峰]
福岡市営地下鉄「中洲川端」より徒歩5分、「櫛田神社前」より徒歩10分
西鉄バス停「東中洲」より徒歩3分
福岡シティループバス「博多座・福岡アジア美術館前」より徒歩7分
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