大黒流の区域内である明治通りに面した複合商業施設「博多リバレイン」に建つ飾り山笠です。毎年隣接する「博多座」と連携しており、表、見送りのどちらかに歌舞伎の演目をテーマにした飾りを展示します。
この一帯は過去に大規模な再開発が行われており、再開発されるまで「下川端通」「寿通」に建てられていた2つの飾り山笠を合体する形で、平成11年から参加しました。
2019年、自然災害に対する安全面を考慮し、これまで飾り山笠を立てていた場所を、明治通り沿いの歩道から、博多リバレインとホテルオークラの間にあるアーケード部分に移動しました。
これにより雨天でも飾り山笠を楽しむことができるようになり、流舁きの日は飾り山笠の真横を大黒流の舁き山笠が疾走するという楽しみな光景が増えました。
今から690年前 建武政権期(1336年4月13日)に筑前国多々良浜(現在の福岡市東区多々良川付近)で足利尊氏(あしかが たかうじ)と菊池武敏(きくち たけとし)の間で行われた合戦で、尊氏が少ない兵で菊池武敏の大軍を破った。この合戦は南北朝時代の始まりを象徴する重要な戦いの一つとされている。
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の建武の新政から離反した足利尊氏は、建武政権から尊氏追討を命じられた新田義貞(にった よしさだ)を箱根・竹ノ下の戦いで破り、その勢いで京都へ攻め上がるが、北畠顕家(きたばたけ あきいえ)らの天皇方勢に敗れ、再興を賭けて九州に下った。
尊氏は、足利方に味方した肥前国守護の少弐頼尚(しょうに よりなお)らに迎えられる。一方、天皇方に味方した肥後国の菊池武敏をはじめ、九州の諸豪族の大半は天皇方に味方し、その軍勢は2万騎以上まで膨れ上がる。
勢いを増した天皇方の軍勢は博多を攻め、少弐氏の本拠大宰府を襲撃して陥落させ、頼尚の父、少弐貞経(しょうに さだつね)を自害させた。
足利勢は、筑前国宗像(現在の福岡県宗像市周辺)を本拠とする宗像氏範(むなかた うじのり)らの支援を受けて宗像大社に戦勝を祈願し、筑前国の多々良浜に布陣した菊池氏率いる天皇方と戦うが、足利軍は約2千騎に過ぎなかった。兵力の差は歴然で、当初は天皇方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れで敗走した。多数の裏切りを出した背景には、九州の諸豪族を味方につけて大軍を組織してはいても、その大半は天皇方有利の情勢を見て菊池武敏に味方した者達であり、むしろ尊氏よりの武将達であった。また、圧倒的に不利な状況であっても終始積極的な戦法を取り、一度天皇方に付いた者の寝返りを誘った尊氏の戦略も見逃せない。
この戦いの結果により九州のほぼ全域が足利方につくこととなり、尊氏は体勢を整え直した。尊氏は一色範氏(いっしき のりうじ)や仁木義長(にき よしなが)などを九州に残して再び上洛し、摂津国湊川の戦いで楠木正成(くすのき まさしげ)を破る。
[人形師:西山陽一]
分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)は、日本中で語り継がれているタヌキが化けた茶釜の昔話で文福茶釜とも表記する。
日本中にはさまざまな伝説がありますが、今回は、実在する茂林寺(群馬県館林市)に伝わる伝説をお伝えいたします。
むかしむかし、上野国(こうずけのくに)に茂林寺(もりんじ)というお寺がありました。
ある日、和尚さんが古い茶釜を買ってきて、お湯を沸かそうと火にかけたところ、茶釜が「熱い!」と悲鳴をあげ、頭や尻尾を出し、タヌキのような姿で動き回り、お寺の和尚さんや小坊主を驚かせました。気味が悪い茶釜を買ったことを悔やんだ和尚さんは、茶釜を古道具屋の男にタダでゆずりました。
やがて、その茶釜はタヌキが化けたものだということを古道具屋の男は知りました。タヌキは正直に事情をすべて男に話しました。
茶釜に化けたまま戻れなくなってしまったといい、そしてタヌキは自ら芸をして稼ぐからと約束をし、男の家においてくださいと伝えました。
茶釜に化けたタヌキが芸をする見世物小屋は大評判になり、曲芸は大いに喜ばれ、古道具屋は大金持ちになりました。
ところが、ある日、タヌキは病気を患い、茶釜の姿のまま死んでしまいました。一人残された男は、雪の夜道にくずれおち、夜通し泣きつくしました。
翌朝、古道具屋の男は茶釜を元のお寺に奉納し供養してもらいました。男は、これまでのことをすべて和尚さんに話し、茶釜はお寺に安置されることになりました。
[人形師:小副川太郎]
福岡市営地下鉄「中洲川端」より徒歩2分、「櫛田神社前」より徒歩10分
西鉄バス停「川端町・博多座前」より徒歩2分
長法被