大黒流の区域内である明治通りに面した複合商業施設「博多リバレイン」に建つ飾り山です。毎年隣接する「博多座」と連携しており、表、見送りのどちらかに歌舞伎の演目をテーマにした飾りを展示します。
この一帯は過去に大規模な再開発が行われており、再開発されるまで「下川端通」「寿通」に建てられていた2つの飾り山笠を合体する形で、平成11年から参加しました。
2019年、自然災害に対する安全面を考慮し、これまで飾り山を立てていた場所を、明治通り沿いの歩道から、博多リバレインとホテルオークラの間にあるアーケード部分に移動しました。
これにより雨天でも飾り山を楽しむことができるようになり、流舁きの日は飾り山の真横を大黒流の舁き山が疾走するという楽しみな光景が増えました。
「川中島の戦い」は、熾烈を極めた永禄4年(1561)の八幡原の激戦が広く知られています。実際には北信四郡(北信濃の高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡を指す)を戦場にして12年、5度にわたる長い戦いでした。戦いの理由については諸説ありますが、川中島は古くから人口が密集する肥沃な地域で、交通の要衝にもあたり、鎌倉時代からしばしば合戦の舞台となっていました。それは大将が大軍を率いて采配し、兵馬をかけさせる適度な平地が広がっていたからともいわれます。武田信玄は、この要衝の地を奪い信濃全域の掌握をはかりました。これに対し、上杉謙信は、北信濃の武士たちに請われて、義侠心から川中島に出兵します。 しかし、寺社までもわがものにしていく信玄の横暴さに謙信は我慢がならず、次第に強い対抗心を抱いて、自国越後までその悪行をおよばせまいと、本気になって信玄に戦いを挑んでいったとも考えられます。
[人形師:生野四郎]
戦国時代に活躍した若き武将達 ▼今川義元(1579年~1560年) 駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。 今川氏第77代当主。武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたる。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて毛利良勝に討ち取られた。 ▼北条氏康(1575年~1570年) 相模国の戦国大名。後北条氏第3代目当主。 武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。当主として19年間、隠居後も北条氏政との共同統治を続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた。元亀元年(1570年)小田原城において死没。 ▼上杉謙信(1530年~1577年) 越後国など北陸地方を支配した武将・大名。 内乱続きであった越後国を統一し、安定と繁栄をもたらした。武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰り広げ、特に信玄との5回にわたる川中島の戦いが知られている。さらに、越後国から北陸路を西進して越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大した。 ▼武田信玄(1521年~1573年) 甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏武田家第19代当主。 先代・信虎期に武田氏は国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、上杉謙信と五次にわたる川中島の戦いで信濃をほぼ領国化し、信濃・駿河・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。領国をさらに拡大する西上作戦の途上に病を発し、死去した。 ▼織田信長(1534年~1582年) 日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。 戦国三英傑の一人。尾張国(現在の愛知県)出身。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大。独自の中央政権(織田政権)を確立して天下人となった。しかし、天正10年6月2日(1582年6月27日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
[人形師:生野四郎]
福岡市営地下鉄「中洲川端」より徒歩2分、「櫛田神社前」より徒歩10分
西鉄バス停「川端町・博多座前」より徒歩2分