博多祇園山笠の歴史 YAMAKASA HISTORY

博多旧町名石碑で「昔の博多」を巡る

博多の街を歩いてると、道の片隅に立っている石碑を見かけたことありませんか? この石碑は博多の旧町名が刻まれた記念碑で、博多祗園山笠の「流」の歴史と深く関わりのある石碑でもあります。
この石碑を辿ると、昔の博多の姿が少しずつ見えてきます。石碑を辿りつつ博多の街を歩いて歴史の旅に出かけてみませんか?

博多旧町名石碑マップ

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時は戦国時代。博多は日明貿易で大いに栄えており、多くの豪商が存在していました。しかし、巨万の富が集まる博多は戦国武将たちの争奪の的となり、博多は合戦に巻き込まれてしまいます。
1580年には龍造寺隆信が進撃し博多の町のほぼ全土が焼失。続いて島津義久の軍が博多を占領するも1586年に博多を焼き払って撤退。博多の街は戦災によって荒廃を極めました。

しかし天正15(1587)年、豊臣秀吉が九州征伐を行い島津氏を降伏させて九州平定を成し遂げます。秀吉は、博多の豪商 神屋宗湛と嶋井宗室の協力を得て、長い戦乱で荒廃した博多の町の復興と町割の整備を行って整然とした近世都市の基礎を作りました。これが『太閤町割り』と呼ばれる博多の都市整理です。

この太閤町割りで出来上がった「町」を元に、博多祗園山笠の町の集まり「流」が形成されました。この太閤町割で出来上がった「流」が、今もなお博多祇園山笠の運営に活かされているのです。

町界町名変更、流の消失の危機。そして・・・

しかし、第二次世界大戦後の近代化に合わせて、福岡市の大幅な区画整理事業により、山笠の運営基盤が消失の危機が訪れます。

福岡市は町の区画方式を、伝統の背割り方式(道を基盤に道の両側が同じ町とする方式)を街区(ブロック)方式に変更。しかも新しい区画方式により、太閤町割り以来の由緒ある133ヶ町を大幅に減らされることになりました。

この町界町名整理により山笠の運営は大混乱しますが、すぐに新しい区画に合わせて流の統廃合が行われ、現在の七流が出来上がったのです。

博多の移り変わりを地図で見る

博多区奈良屋町(旧町名:古渓町)には、文化9年(1813年)の頃の博多近隣古図の石碑があります。この地図を見ると、太閤町割りによる町界町名がよく分かります

これは終戦間もない昭和23年の博多の地図。町界町名整理が行われる18年前です。昭和に入っても太閤町割りによる町名が付けられています。この頃は博多駅が現在の地下鉄「祗園町」の辺りにあった頃。今の博多駅の場所は何もない野原でした(クリックすると周辺地図を表示します)

そして、江戸よりも前の鎌倉期から室町期に戻ると・・・

博多部は海の中、だったですね。それでも中央左手を見ると、すでにこの時代から櫛田神社は存在していた事が確認できます。長い歴史を持つ博多の町。その歴史に添うように流れた山笠の歴史。博多の歴史の旅は尽きる事はありません。