15日間に渡って行ってきた博多祇園山笠のクライマックスにあたる行事。 行事の呼び名は「おいやま」ではあるが、メディアでの表記は2019年以降『追い山笠』に統一されている。それまでは『追山笠』 『追い山笠』『追山』『追い山』という表記が使われている。
7月15日午前1時過ぎより一番山笠を先頭に、七流の舁き山笠が櫛田神社前の土居通りに集結。午前4時59分、一番山笠が山留(スタート地点)から太鼓の音と共に舁き出し「櫛田入り」を行う。二番山笠は6分後の午前5時5分から、三番山笠以降は5分間隔で続いて櫛田入りを行い、払暁の博多の街を縦横無尽に疾走するという壮大で勇壮な行事である。
廻り止め(決勝点:ゴール)は須崎町石村萬盛堂前(町奉行所跡)。櫛田神社から廻り止めまでの約5.5キロを約20分で走破する。
追い山笠では、山留から櫛田神社の清道を回って清道を出るまでの「櫛田入り」のタイムと、廻り止めまでの「全コース」の走破タイムが計測される。タイムは計測されるが”優勝”という称号や、”賞金”などの報酬は存在しない。与えられるのは「誉」のみだが、博多の男たちはその誉のために、一年間頑張っているのである。
テレビや新聞等では追い山笠が大々的に特集されるので、7月15日の祭礼は4時59分からの追い山笠だと思われているが、本当の祭礼は午前3時より櫛田神社拝殿にて行われる「祇園例大祭」である。この祇園例大祭の神事を受けて行われるのが山笠神事であり、この祇園例大祭が行われないと山笠は出発することができない。
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全国的に見ても「神輿で競争する祭り」は珍しいが、現在のような速さを競う形態が発生したのは1687年(貞亨4年)との事とされている。
「櫛田社鑑」によると、博多の竪町(石堂流)に住む幾右衛門の息子が、土居町(土居流)に住む助右衛門の娘と祝言を上げたのだが、正月に息子夫婦が嫁の里に初入りした際、酒宴の席でその頃の土俗として土居町の若者が水桶をかつがせて歩き廻すなど悪戯をしたことから、竪町の男たちが「竪町の者をなめやがった」と土居町に押しかけて大喧嘩になった。その場はひとまず収まったものの、その大喧嘩はくすぶり続け、夏の山笠にてその火種が燃え上がる。
この年の山笠は、土居町が二番山笠、三番山笠が官内町で竪町の組であった。この時代の山笠は”練り歩くスタイル”の祭りで、途中で山笠を下ろして昼食を取ったりする(昼喰い)のんびりした祭であり、二番山笠の土居町は東長寺にて昼喰いを行っていた。すると後ろからやってきた三番山笠の竪町、正月の恨みを晴らさんとすべく、二番山笠を追い抜こうと走り抜いた。それに気づいた土居町は大急ぎで山笠を担いで走って追い、山笠が追いつ追われつ・・・という状況が、とても受けたようで博多の山笠は走るようになったところ、その光景が面白く見物の者たちから喝采を受け、それ以降博多の山笠は速さを競うようになった・・・と言われている。何が引き金になり、それが700年以上も続く祭りになるのか分からないものである。
追い山笠が行われる7月15日は以下のようなスケジュールとなっている
飾り山笠の場所や山大工のスケジュールにもよるが、多くの飾り山笠は7月15日になると同時に山解きが始まる(場所によっては14日の夜半から開始する所もある)。
追い山笠が始まるまでに、櫛田神社と上川端通の飾り山笠以外すべての飾り山笠は解かれないといけない習わしである。
七流の舁き山笠が土居通りに集結。土居通りに山を据えることを「山列入り」と呼ぶ。一番山笠から順に土居通りに入り、櫛田神社北門辺りから番付順に距離を開けながら一列に並ぶ。山列入りを行うと、舁き手達は櫛田神社に参拝を行ったり、各流の手打ちが始まる。
櫛田神社に設営された”アリーナ席”桟敷席が開門。桟敷席券を持った人たちが入場を開始する。
櫛田神社拝殿にて祇園例大祭が齋行される。博多祇園山笠振興会、山笠関係者、氏子等が儀式に臨む。この様子は場内アナウンスでも中継される。
午前4時58分55秒、場内アナウンスの「5秒前!」が告げられると、棒鼻が5回叩かれ、一番山笠が櫛田神社境内に駆け込んでくる。追い山笠の開始である。一番山笠は能舞台前に山笠を据えて祝いめでたを唱和すると、博多の町へ駆け出していく。二番山笠は午前5時5分に、それ以降の流は5分おきに櫛田入りを行う。
最後に八番山笠上川端通が櫛田入りを行う。八番山笠が清道を出ると、櫛田入りがすべて終了となる。
追い山笠で荒ぶった神を鎮めるために、能舞台にて奉納能が行われる。
15日間山笠を見守り続けた清道内の清道旗が降ろされ、桟敷席の後片付けが開始される。山小屋に戻って山解きが行われた各流からは、舁き棒が櫛田神社神庫に戻される。