集団山笠見せ(しゅうだんやまみせ)
7月13日に行われる、七流が福岡市役所へ表敬を行う山笠行事。
商都・博多部のお祭りである博多祇園山笠の舁き山笠が、15日間の山笠期間の中で唯一、城下町・福岡部(天神)に舁き入れる行事で、この日の往路台上がりは福岡の地名士やゆかりの有名人が台上がりするのが恒例となっている(棒さばきは流総務らが行う)。
なお、この行事に限っては神事ではない(※詳細は後述)ため、参加者もタイムなどを気にすることなくリラックスした状態で「お祭に参加」する感じもあり、終始笑顔で子供と一緒にゆっくり走る参加者の姿も多くみられる。
コースは、福岡市博多区の呉服町交差点付近から福岡市中央区の福岡市役所前まで。博多と天神を繋ぐ明治通りをほぼ一直線に走る。
往路・復路があり、往路は呉服町交差点から福岡市役所前まで、復路は市役所前から博多座先の青龍堂前までとなっている。
午後3時30分に一番山笠が博多区呉服町交差点からスタートすると、その後は5分毎に出発する。
明治通り沿いのコースなので見物しやすいのが特徴。買い物客などが多い天神地区に舁き入れる事から、道路左右のビルの窓や屋上など、普段以上の見物客で賑わう。
県庁前に到着した一番山笠は、特設された舞台に向け舁き山笠を据え、参加賞旗の贈呈を行った後、祝いめでたの唱和と手一本を入れる。二番山笠以降は手一本を入れるのみとなる。
その昔は、到着した全ての流が祝いめでたを唱和していたが、1981年(昭和56年)より追い山笠・追い山笠馴らしと同じように一番山笠だけが行うようになった。
集団山笠見せの歴史
博多祗園山笠は商都・博多で生まれたお祭りであり、そのお祭りは博多から出ずに全てが「博多」で完結していたのだが、「県内外の観光客誘致」「市民的盛り上がり」を目的に福岡市より要請されたのを受けて、昭和37年(1962年)より行われるようになった。(よって古来からの神事ではない)
昭和37年6月1日の総会において上記の要請が提案され、賛否両論の白熱した論議が交わされた。
反対意見は「福岡部に繰り込むのは山笠の歴史に例がない」「山笠は奉納行事であり、見物中心のパレード化はもってのほか」「流の舁き手が不足しているのに、長い距離の新行事が加わると、肝心の追い山笠に影響が出る」などの意見が出された。
これに対し「祭りも時代と共にに変わっており、福岡市の発展に役立つのならやるべき」という賛成意見も多数挙げられ、結果、行事を開催する事に決まった。
名称は、7月13日に他流に山見せしたことから行事名を「集団山見せ」とし、福博の知名士が振興会の推薦で「台上がり」する事が承認された。
また、距離も初案の千代町-天神間から呉服町-天神間に短縮する折衷案で決定。コースについては警察と協議され、振興会側は「電車通り(※のちの明治通り)」を提案したが、交通問題などから50メートル道路(※のちの昭和通り)」で行われる事となり、万四郎神社前(蔵本交差点)から福岡中央郵便局前までの約1.5キロが最初のコースだった。
※写真は1967年(昭和42年)に昭和通りを走る上川端通の「走る飾り山笠」
山笠史上初の集団山笠見せに参加したのは八流。土居流は「流の行事だけで精一杯」として参加を辞退した。
当初は午後4時スタートだったが、1967年(昭和42年)帰宅ラッシュに重なる事で交通事情が問題視され、警察との協議の結果午後3時半に変更となった。
1966年(昭和41年)からは創立3年目の「走る飾り山笠」こと上川端通が初参加。
翌1967年(昭和42年)より土居流が参加。この年が、全ての流が揃って集団山笠見せに参加した初めての年となる。(※上川端通の参加は1983年(昭和58年)まで。)
1982年(昭和57年)、福岡市営地下鉄呉服町駅が開業し明治通りが整備された事から、「丸善横」から「旧県庁前」までにコースが短縮となったが、昭和37年以来の明治通りでの開催という宿願が果たされる。この時の往路は呉服町交差点-福岡市役所、復路は国体道路を通っていた。翌昭和58年には呉服町交差点から旧県庁前までに距離が延長される。
2010年(平成22年)、復路のコースを明治通りに変更となる。明治通りと国体道路という市を東西に結ぶ2つの大きな幹線道路が長時間確保される事で、市中心部の交通渋滞を引き起こしてしまい多くの苦情が寄せられていたため、明治通りの往復コースへとなった。
一度だけあった「福岡」入り
集団山笠見せが行われる以前、舁き山笠が「福岡」入りしたことがある。
戦前の昭和10年(1935年)の事で、恵比須流が追い山笠終了後に中島橋を渡って福岡市役所に舁き入れている。これは、翌年春に開かれる博多築港博覧会に展示するためで、市役所では「手一本」を交わして当時の市長である久世庸夫市長に渡した。この舁き入れがこれが山笠史上初の福岡部舁き入れとなっている。
“裏”集団山笠見せ”
復路を走り終えた各流は各山小屋に帰っていく事になるのだが、大黒流、西流、千代流、恵比須流、土居流の五流は、復路を終えるとそのまま櫛田神社に向かい、櫛田入りの練習を1回ずつ行って帰路に就く(※2024年時点)。帰路途中の練習であるため特に行事名称等はなく、山笠ナビスタッフ間では、通称「裏山見せ」「裏開催」と呼んでいる。
7月13日は桟敷席が無料開放されている事もあり、そのため無料で櫛田入りが5回も見る事が出来るため、少々昔では知る人ぞ知る「隠れ人気行事」だったのだが、ここ近年は集団山笠見せよりもこちらを目当てで来る人もいるぐらいの人気行事となっている。曜日や天気によっては桟敷席がほぼ満席になってしまうぐらいの人気で、集団山見せの復路を見て急いで櫛田神社にきてもなかなかいい席が取れないという事もざらにある。
山笠通のみが知る隠れ人気行事だったのを表に引っ張り出したのは山笠ナビであるという笑いを含んだツッコミも頂いており、これは恐縮するばかり。
「晴れの追い山笠、雨の集団山笠見せ」
集団山笠見せでよく言われるのが「晴れの追い山笠、雨の集団山笠見せ」というフレーズ。見物客、参加者共になぜか集団山笠見せ=雨のイメージが強いらしく、晴れの日が続いても「集団山笠見せの時は雨やもんねぇ」と苦笑いされる事が多い。
2012年から2024年の集団山笠見せの記事を読みなおしたところ、10回開催のうち、開催中にずっと雨が降っていたのは2019年、2024年の2回。開催前に止んだのを含めても2012年の3回である。打率.333と考えたらアベレージヒッターではあるが、これを雨率が高いと見るか低いと見るかについてはなかなか難しい所である。
集団”バス”山見せ