博多祇園山笠は、舁き山笠を舁いて博多の町を走り回るという勇壮な祭りのイメージから、色々な所で『神輿を担いでタイムレースをする祭』『タイムアタックを行う祭り』というイメージを強く持たれがちで、そのような報じられ方や説明をされる事が多い。だが、博多祇園山笠はタイムレースでもタイムアタックの祭りではなく、櫛田神社の奉納を目的とした神事であり、一番速いタイムを出して一位になったとしても優勝という概念はなく、当然ながら賞金や賞品の類は一切出ない。あるのは誉のみである。順位も付けない、何も褒美が出ない、なのに所要時間で参加者が一喜一憂する様子は他県の人から見たら奇妙に映るらしい。
博多祇園山笠振興会も2023年(令和5年)に発表した『博多祇園山笠事故 再発防止の安全対策案』の中で、「博多祇園山笠は『奉納神事』であることを念頭に置き参加すること。(タイムレースでは無い)」と明文化している。
・・・とはいえ、複数のチーム(=流)が同じ距離を走るとなると、自然と『速さ』を競いたくなる、そして競ってしまうのは、人の性というものなので、”より早く櫛田入りを行う””より早く廻り止めに到達する”事には抗えないともいえる。
現在は7月12日の追い山笠馴らし、7月15日の追い山笠において、タイムが計測されている。計測されるのは、櫛田神社横の山留(スタート地点)から清道に入り、清道旗を廻って清道を抜けるまでの所要時間、いわゆる『櫛田入り』のタイムと、山留から須崎町の廻り止め(ゴール地点)までの所要時間、いわゆる『全コース』のタイムが計測される。
関係者立ち合いのもと、代々幸田時計店が手巻きの懐中時計を使って計測を行っている。
山笠の古老曰く「きれいな奉納を行えばおのずと速いタイムが出る」と話しており、参加者はどのようにしたら速く走れるか、きれいに走れるかという事を考えて勉強会を開いたり会合を持ったりして一年間を過ごす。山笠が終るとその反省を生かすため、来年の山笠に備え準備を開始する。
櫛田入りタイムは、櫛田神社横の山留~清道~清道旗~清道を抜けるまでの所要時間で、いわばスプリントレースのようなタイムを計測する。
清道の出入り口に建てられた太鼓櫓に、立会いとして振興会役員、宮総代、流の太鼓櫓委員らが上がり、櫛田神社の神職が大太鼓を鳴らし、幸田時計店がタイムを計測する。
幸田時計店の者は神職が着用する白衣と袴を着用。神職が太鼓を打ち鳴らすために上段に構え力を入れてる状態の太鼓のバチを持ち、舁き出し時間になったらバチから手を放し、太鼓が鳴ると同時に計測を開始。櫛田入りして清道を出ていく舁き山笠の棒鼻が太鼓台前に到達した瞬間に時計が止められる。
計測されたタイムはすぐに太鼓櫓横の放送席に伝えられ、放送席に控えたアナウンサーが場内アナウンスで所要時間の発表を行う。
なお、櫛田入りに時計が使い始められたかについては、幸田『父の代から』とだけはわかっているが、正式記録には残っていないそうだ。
全コースタイムは、櫛田神社の山留から須崎町の廻り止め(ゴール地点)までの約5キロの所要時間、いわばディスタンスレースのようなタイムを計測する。
7月12日の追い山笠馴らし、7月15日の追い山笠では廻り止めの場所が異なっているが、計測方法としては廻り止めの幕の下に舁き山笠の棒鼻が到達した瞬間に時計が止められる。
共に振興会役員、宮総代、流の廻り止め委員が立ち合いを行い、幸田時計店がタイムを計測する。
7月12日の追い山笠馴らしでは廻り止め脇に作られた廻り止め櫓から計測し、7月15日の追い山笠は石村萬盛堂の2階にこの日だけに使われる特設の時計計測所から計測。舁き山笠が廻り止めの幕に到達するとすぐに所要時間がボードに書き込まれ、手すりに掛けられ掲示される。
戦後以降のデーターでは、追い山笠馴らしの櫛田入り最速タイムは、1956年(昭和31年)櫛田流が出した27秒4、追い山笠は1960年(昭和35年)土居流が出した27秒2。 (ただ、新聞記事によって記録が違ったり、当時の成人男性よ体格が違う(当時は平均身長が現在より10センチほど低い)ことを考えると、正確な記録かどうか疑問符がつくとされている)
櫛田入りでは『30秒』を切ることが夢の大台の扱いとなっている。
追い山笠馴らしでは、1956年(昭和31年)櫛田流の27秒4以外では、2019年(令和元年)西流が出した29秒64のみとなっている。(なお1964年に呉服町流が30秒0を出している)
追い山笠では1960年(昭和35年)土居流の27秒2以外では、2025年(令和7年)の西流の29秒64のみとなっている。
西流は2025年の追い山笠で65年ぶりの快挙、2019年(令和元年)の追い山笠馴らしでは63年ぶりの快挙を成したことになる。
追い山笠と追い山笠馴らしは距離が違うため別々の計測となる。
追い山笠全コースの最速記録は、2004年(平成16年)西流が出した25分58秒。
夢の大台は『28分』を切ることとなっており、現時点で最もその記録に近付いたのは2009年千代流の28分23秒、2004年大黒流の28分24秒、2014年東流の28分25秒である。
追い山笠馴らしの全コースの最速記録は、2004年(平成16年)西流が出した22分26秒。
夢の大台は『24分』を切ることとなっており、現時点で最もその記録に近付いたのは2012年東流の24分56秒、2014年東流の24分58秒である。
上記の記録で分かるように、2004年の西流は追い山笠馴らしでも追い山笠でも歴代記録を打ち出しており、この年は最も速い流だったと言えよう。
そもそも京都の祇園祭のようにゆっくりと練り歩いていた博多の山笠が、1687年(貞享4年)、町の小競り合いが原因で土居流が東長寺で休憩中、石堂流に追い越される「事件」がおき、このとき2つの流が抜きつ抜かれつの競争となった事が人々に受けて、博多の山笠はスピードを競い合うようになった・・・という歴史からも、博多の山笠は『スピード』を重視した神事と言っても過言ではない。
当時は時計などの計測する物はなかったので所要時間などの記録は全く残ってないが、追い抜け追い越せと前を走る流を追いかけたらしく、追い抜いた事で待ち同士で大喧嘩になったなどの記録が残っている。
また、古来より承天寺前を廻って表敬する決まりになっていたのが、速さを求めるあまりに表敬を行わずそのまま行ってしまう流が後を絶たなかったらしく、1848年(嘉永元年)承天寺が寺社奉行に「山昇き参加者にきちんと昇き込みをする」よう申し出を行っており、寺社奉行もこれを受けて博多年行司に厳しく通達している。
時計がなかった時代は、1786年(天明7年)先山(一つ前の舁き山笠)が東長寺を出る時、各所に立てた櫓から合図(竹を振って合図、のちに旗、太鼓となっていく)が出され、それを受けて次の山が櫛田入りしたという記録が残っている。
明治時代に入ると欧米からの時計生産技術の導入が積極的に図られ、一般的に時計が普及していく。1894(明治27)年には大阪時計製造が米国企業より機械設備を導入して米国人技師のもと懐中時計を製造された。
この様に時計が世の中に普及されると、山笠を計測する人たちが現れる。
1891年(明治24年)、福陵新報は追い山笠の翌日付で、同社の判定役が廻り止めの少し手前で計測した各山笠間のタイム差や、別の場所で山笠ファンや同社の別の判定役が計ったタイム差を掲載した。
その3年後には、福岡日日新聞が各流の出発時刻とコース途中の9カ所の通過時刻を折れ線グラフで紹介。どの流が前との差をどの区間で詰めたかなど一目で分かるように工夫、タイム計測報道で盛り上がったという。
1905年(明治38年)、6月13日(旧暦)の追い山笠馴らしの時に、時計係が太鼓と雷鳴を聞き誤り山留めの竿を上げてしまった事で、二番山の福神流が定刻より速く櫛田入りしてしまう。それを受けて三番山以降の各流も時間を無視して出てしまい、その結果、東長寺清道から承天寺清道の道に五本の山が並んでしまう前代未聞の事件になってしまった。いわゆる「雷鳴事件」である。このことは後日まで大揉めとなり、「時刻は正確でないといけない」と当時、中島町で時計店を開いていた幸田新平氏に計測の依頼が行われたことが時計計測の始まりとされている(※口伝であり正式な資料では残っていないらしい)。櫛田神社から東長寺まで500メートルという距離を考慮し、追い越しなどで揉めない時間は5分ぐらいだろうということでスタート間隔が決まったという。
その5年後には、路面電車の電線が架けられたため舁き山笠が小型化、流間の競走に拍車がかかった。
1951年(昭和26年)には、現在も続いている櫛田入りのラップタイムがスピーカーで放送されるようになった。
神事ではあるが、『タイム』という分かりやすい判断基準は人々の注目を集めるもので、昭和初期には新聞紙上や放送局の情報誌上で所要時間に関する予想クイズ企画を行うのがお決まりだった。
1952年(昭和27年)の西日本新聞では、「追山ならしの一番早い山笠所要時間懸賞募集」として、『何分何秒』を当てる企画を展開した。 1971年(昭和46年)の西日本新聞では、「追い山全コースで、どの流が一番でそのタイムは何分何秒か」という企画を行っており、正解者と正解に近いタイムを当てた人には賞品として東芝電気カミソリを30名にプレゼントしている。プレゼントはその年その年によって変わっており、1974年(昭和49年)は賞品が平和台球場入場券10名だったりと、その時代ごとに人々に喜ばれる賞品が用意され、皆競って応募したようだ。
当然ながら、現在はこのような企画は行われていない。
1954年(昭和29年)、櫛田入りのタイムだけ計測されて、全コースのタイムを誰も計っていなかったという大珍事が発生している。
須崎の廻り止めに正式の記録係は一人もおらず、廻り止めに到着した流はタイムは出ないのかと困惑、現場は混乱に陥った。博多山笠振興期成会長の落石栄吉氏の談話では、「例年新聞社で記録をとっていたので今年も大丈夫と思っていた」と陳謝。この年は正確な所要タイムの発表を見合せることになった。これ以降、タイム発表については関係者協議の上、ミスのないよう正式に計測されている。