八番山笠上川端通の櫛田入りが終わった後、境内の能舞台で行われる奉納能楽。『鎮め能』『鎮能』とも呼ばれる。
櫛田入りは櫛田神社に祀られる素戔嗚尊(祗園宮)に奉納する神事であるが、この荒々しい奉納で荒ぶった神と騒音が渦巻いた社頭を鎮めるため、すぐに能を奉納してご神霊を慰さめる。この能を奉納して博多祇園山笠は『無事奉納を執り行った』ということになる。
追い山笠の上気した空気が、この奉納能楽でスッと”静”に返るのも、山笠の味わいの一つとされている。
博多祇園山笠=櫛田入りのイメージが強いためか、能楽奉納が行われていることを知っている人は意外と少なかったが、ここ近年はこの能を楽しみに山笠を見に来る人が多くなった。
演じられるのは、素謡「翁」、舞囃子「高砂」「竹生島」「船弁慶」など。
江戸時代の頃、町奉行は清道前の舞台から山笠の櫛田入りをみたのち、能の「翁」の舞を一つみて引き上げるのが慣例だった。
八番山笠上川端通の櫛田入りが終わった後、能舞台が片付けられ、清道に椅子が配置されて準備が行われる。そして午前6時ごろから始まる。昭和初期は午前10時など少々遅い時間に行われていたが、1964年(昭和39年)山笠が国の「記録を保存すべき民俗資料」に指定された事で、全行事をできるだけ伝統どおりに行うようにしたため、古式に則って櫛田入りが終わった後すぐに行われるようになった。
奉納能は記録では寛文8年(1668年)以来行なわれており、中絶、再興を繰り返し今に至るという。
その昔は猿楽が奉納され、能楽が武家の式楽となると能楽が奉納されるようになった。
代々喜多流梅津家にて担当されており、喜多流職分とその社中の人々によって演ぜられていた。
かつては山笠当番とは別に61~62年毎に博多各町に「能当番」が回ってくるようになっており、七流で輪番で山笠の奉納をやめてこの任に当たっていたが、明治38年の雷鳴紛争で山笠行事を中止した福神流が、大正2年以降「能当番」に当たって奉納を行うようになった。
その後、第二次世界大戦による戦災による中絶の後、1951年(昭和26年)から「袴能」で復活。
しかし、1964年(昭和39年)福神流が三ヵ町に減って、継続出来なくなったとの事で「能当番」を返上。それ以来、宮総代が能当番を務めている。