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博多祇園山笠用語辞典 YAMAKASA DICTIONARY

新天町(飾り山笠)(しんてんちょう)

福岡市中央区天神2丁目にあるアーケード商店街『新天町商店街』のメルヘン広場に立てられる飾り山笠。アーケード下に山小屋を建てて、その小屋の中に飾り山笠を納めて奉納する。
戦後すぐから奉納を始めており、当時は「商業主義な飾り山笠」と揶揄されながらも「標題は常に発展している。新しさ、鋭さこそ博多山笠をさらに発展させる飛躍台だ。」という精神から、斬新な標題やスタイルを次々と発表。この思想は多種多様な飾り山笠を生み出すきっかけとなり、現在に至る山笠の発展に大いに寄与していると考えられている。

表の標題は、武者物や伝奇物などの山笠の伝統的な飾りが、見送りの飾りには協賛を西日本テレビ(TNC)が行っていることから、国民的アニメ『サザエさん』が長年採用されている。

7月最初の週末には子供山笠も行われており、飾り山笠の横から舁き出されている。

飾りの特徴

現在は表は武者物、日本神話、お伽噺など多彩な伝統的な標題が飾られる事が多く、見送りには国民的アニメ『サザエさん』が飾られるのが定番となっている。『サザエさん』は2012年(平成24年)から登場し続けており、2025年(令和7年)の時点で13年連続で新天町の飾り山笠に登場している。

新天町の飾り山笠は「新しさ、鋭さこそ博多山笠をさらに発展させる」という精神から、斬新な標題やスタイルの飾り山笠を奉納。後述しているが、「飾り山笠誕生の経緯」や「シンデレラ騒動」など、話題性に事欠くことがなく、時には大きな話題に、時には論争を巻き起こすなど、飾り山笠の話題の中心に立つことが多い。

1954年(昭和29年)の「シンデレラ」以降は、見送りには人気テレビ番組(「帰ってきたウルトラマン」「プロレス3四郎」「ワクワク動物ランド」「ゲゲゲの鬼太郎」等々)、映画のビッグタイトル(「地獄門」「二〇〇一年宇宙の旅」等々)、時世を写した話題(「地球は青かった」でガガーリンが登場、「揚げよ日の丸」でオリンピックを描く等々)など、子供が喜ぶもの、人々が興味を持つ話題性のある物が標題に採用されている。

1962年(昭和37年)の「地球は青かった」は、人類初有人宇宙飛行したガガーリンを中心に据え、日本のロケット研究の第一人者である糸川英夫博士が見上げている構図で、古老は「ついに宇宙が・・・」とショックを受けたとか。人形を手掛けた小島一義師は「顔を似せるのに苦労した」らしい。

標題以外にもその山笠の形式についても話題となった。新天町の飾り山笠は交通が激しい商業地区の飾り山笠であるため、昭和中期は交通事情が大変厳しくて警察からなかなか許可が出ず、奉納に苦心したようだ。
1965年(昭和40年)、それまで中央通りに立てていた飾り山笠だったが、交通事情の悪化から警察から設置の許可が下りず、一旦奉納中止まで検討された。しかし、山笠台を使わず、アーケード2カ所に表と見送りを分けてアーケードから吊り下げ、モーターでゆっくりと回転させるという苦肉策で何とか奉納を行った。人々は飾り山笠の下をくぐって買い物をしたという事だが、事情を知らない人たちからは「また新天町がヘンテコな飾り山を建てた」「宙づりで脚がないから”幽霊山笠”たい」などの声も出たという。
翌1966年(昭和41年)は二年連続で変則的な山笠は作れないと、交通の邪魔にならない商店街アーケード内に立てることにして正式な山笠の形で奉納した。

また、飾り山笠の前でイベントが行われる事も多い。
1964年(昭和39年)、福岡市スポーツセンター(現在のソラリアステージの場所)にスペイン大サーカス公演が来日。本番開幕を前に人気者のゾウ2頭が、山笠でにぎわう新天町一帯を練り歩き、飾り山笠前で曲芸を披露してサーカス気分を盛り上げた。
また、2005年(平成17年)には新天町サンバパレードが行われ、飾り山笠の前を市内のサンバチームが闊歩するイベントも行われていた(※2017年に終了)。

歴史~新天町の飾り山笠が奉納されるまで

新天町は1945年(昭和20年)大空襲で焼け野原となった天神町(てんじんのちょう)に、空襲で店を失った博多商人が復興を目指して集まり商店街を立ち上げたのが始まりである。福岡大空襲で店や家を失った旧博多部出身の若手が開いた店が大半で、商店街の名前は「新しい」「天神町」という所から付けられた。川柳作家でもあった安武孝一氏が考案した名前で、筆で大きく「新天神町」と書き3文字目を手で隠し命名したというエピソードがある。

こうして戦後間もない1946年(昭和21年)10月15日、「新天町商店街」が創業した。10月15日から3日間「新天まつり」の名で盛大に大売り出しが行われ、大いににぎわったという。
創業告知を新聞広告に載せたり、戦後初めて福引を復活させたのは、福岡市では初めてだった。奇想天外なアイデアや話題性を多用し、地域を盛り上げていく精神はここからも垣間見ることができる。
なお、今のように大規模なアーケード街となったのは1950年(昭和25年)である。

一方、博多部でも復興が始まりツナバ商店街や川端商店街が形成される。山笠も戦前・戦中の中止から再開していく。1946年(昭和21年)5月に行われた「第一次博多復興祭」で子供山笠が復活、1948年(昭和23年)は櫛田入りだけだが舁き山笠行事が復活した。櫛田入りが復活した事を受け、翌年1949年(昭和24年)4月には「伝統を誇る博多祇園山笠の振興を期し郷土の発展と文化の向上並びにスポーツ精神の昂揚をはかり延いては日本再建の平和運動の一助となすを目的とする」目的で「博多祇園山笠振興期成会」(以後、期成会)が結成さた。

山笠が復活していく中、新天町は祭による地域の盛り上がりと連帯を考え、1949年(昭和24年)に飾り山笠を奉納することを計画。当時の値段で50万円もする二丈五尺余(約7.5メートル)の飾り山笠を考え、飾りも博多人形師の大家である小島与一師に依頼。小島師も人形の衣装の下見としてで京都に出かけるなど計画は順調に進んだ。

ところが、この動きを聞いた期成会は、博多部の祭りが福岡部に出た事、奉納目的の飾り山笠を商店街の利益を目的としたものと扱われる事、そもそも期成会に何の断りもないという事で、山笠振興期成会幹部連名で新天町に申入れた。期成会側は「新天町側が寄り合いのに出て意見を述べてもらいたい」と述べる一方、新天町側は「昔は若八幡宮でも小さい山笠が幾つも建った。神社関係の方も何本も立ってもいいと話している」と述べる。互いの見解の違いで協議が重ねられたが、両者協力して祭を盛大にすることで話がまとまり、6月30日午後3時半からの櫛田神社で行われた会合で手打ちを行い決着がついた。

これによって7月1日、岩田屋と新天町の間に福岡部初の飾り山笠が立った。標題は表が「根元草櫂引」で、見送りは「博多小女郎浪枕」だった。
当時の山笠振興期成会長の落石栄吉氏は、この時の事を振り返り『天神の商魂のたくましさにしてやられた』と、笑ったという。

「シンデレラ」騒動

1954年(昭和29年)5月1日、どんたく直前に新天町商店街は不慮の大火に見舞われた。合計23戸が全焼、死者1名、負傷者7名を出した惨事となった。

新天町の山笠関係者は、今年の飾り山笠について再三協議を行い、”新天町亡びず”を喧伝するため飾り山笠を立て、標題も奇想天外な題材を飾ることにした。表にグランプリを受賞した大映映画『地獄門』を、見送りにはこちらも映画化されたフランス童話の『シンデレラ姫』である。山笠に外国の物語が登場したのは史上初となる。

山笠は櫛田神社に奉納する神事であり古来より格式が守られており、標題も伝統的な武者物や日本神話、歌舞伎物、浄瑠璃、能、狂言などの芸題が採用され続け、伝統が護持されてきた。しかもこの年、山笠は無形文化財に指定された一年目の年。そこにこれまでの伝統と格式に反するような新天町の標題の発表に、期成会を始めとする山笠関係者、新聞社、そして世の中が「神事か商魂か」「合理主義か伝統主義か」と喧々諤々と論争が巻き起こった。

特に見送りのシンデレラについては槍玉に挙がった。期成会の会長である落石栄吉氏は「神事に外国のものを持ってくるとはもってのほか。そんなものなら何も櫛田宮の祭にしなくとも盆か歳末売出しにすればよいのであって、邪道という以外にない。もちろん博多商人の祭りであるからこれは商売繁盛に持ってゆくのは当然だが、あくまで祭典のワク内でやるべきだ。」と厳しく論じた。一方、新天町側は「標題は常に発展している。新しさ、鋭さこそ博多山笠をさらに発展させる飛躍台だ。これには大きな勇気と努力がいる。」とこちらも激しく反論した。
当時の新天町商店街公社代表取締役の下沢轍氏は「伝統ばかりに固執して次第に山笠の目新しさが失われて行く。文化財指定のものといっても何も毎年同じものを作らなければならないというものではないだろう。山笠の歴史を見ても明治42年に電車の開通を祝って電車を織り込んだ山笠ができたこともあり、40年も前に先覚者が試みたことだ。固苦しいことをいうのをやめて大いにお客さまにサービスするのはよいことではないか。」と談話を残している。

この論争は新聞でも大きく扱われており、世の中の大きな注目を集めた。当時の新聞での聞き取り調査では、一般市民からは「神様を冒涜するもの」「大昔の物語を飾るそんな時世じゃない」との意見も出ており、比率的には”伝統派”に賛成7割、”新派”は3割と伝統派を推す意見が多かったようだ。別の新聞の調査では、山笠振興期成会、郷土史家、古老などは大体反対の立場をとっているが、若い人たちや学生層、各流の役員たちの間では容認する者が多かったようだ。

6月28日、論争が続く中、断固押し切って飾り付け作業に入った。新聞によると「構図は王子様とシンデレラ姫。白馬が飛出したり魔法使のお婆さんが出たり、ことごとく洋装のスタイル。欄干つきの「渡り廊下」に代って近代的な階段、テラス、そしてお城。塗料使用を制限して、ガラスを多分に使ってあるからヤマ全体キラめく空の星のよう。一見教会の七彩「ハリ」窓を思わせる。」と伝統的な飾りとは一線を画す画期的な飾りだったようで、「二頭立ての馬を使用したのも初めてで、人形師さえ「果してどんなヤマになるか」と心配していたほどだったがビックリするほどよく出来た。とかくの批判もあるが旧態依然たるカラを破った意味で今後まねをするところも現われるのではないか。」と見解を述べている。

話題性が多大にあった事から賛否両論あるとしても大好評で、多くの人が見物に来たようだ。

落石氏は後々のインタビューで「もともと櫛田神社への奉納だからその枠内で催すのが建前。ただ飾り山笠を作る当番町は商都博多の性格上、商売繁昌にもってゆくことは当然といえば当然でこれも時代だろう。振興会の目的は山笠の指導連絡機関だから、流への内政干渉はできない。伝統の精神、格調、意気から逸脱した場合は振興会の性質上注意を喚起するが、伝統の精神を生かすと共に時代と一緒に進まねばいかんと思っている。」と述べている。

このシンデレラ後も「神事か商魂か」「合理主義か伝統主義か」の論争は続いていくのだが、この1954年を機に飾り山笠に現代風の標題が登場するようになり、新天町の「新しさ、鋭さこそ山笠をさらに発展させる」という精神は、現在の多彩な飾り山笠の飾りに繋がっている。

なお、余談ではあるが、この1954年という年は伝統の枠を打ち破った型破りな飾りが他にも登場しており、因幡町商店街の飾り山笠には「前年に発生した大水害の犠牲者の冥福を祈る」として表は「地獄と極楽」、見送りは「阿鼻地嶽苦」という飾りが飾られた。山笠の前に線香を焚き、賽銭用の釜を備え、市内の僧侶らが盛装で読経し法要を行うなど、前代未聞の飾り山笠だったようだ。

新天町の子供山笠

新天町は山笠を舁かない代わりに、子供山笠が7月最初の週末に行われ、近隣の主要商業施設(ソラリアステージ、パルコ、岩田屋三越等)を表敬して回る。
舁き出し場所はメルヘン広場に建っている飾り山笠の山小屋の横で、午後3時になると新天町のシンボル「メルヘンチャイム」にて「アビニョンの橋で」の演奏が始まり、演奏が終わると「3、2、1」「ヤー!」と舁き出される。参加する子供は近隣の小学校に通う児童や、ボーイスカウトなどの子供ら約200名。保護者が子供の雄姿を撮るために並走する光景をよく目にするのも特徴。

2019年までは土曜日・日曜日の2日間に渡って行われていたが、2020年のコロナ禍の影響で4年間開催中止に。2024年に復活した年からは土曜日のみの開催となっている。

新天町の子供山笠の歴史は、まず「子供山笠」の歴史から紐解く必要がある。1971年(昭和46年)博多区下川端町の旧寿通商店街で紳士服店を営んでいた河原由明氏が「後継者の育成と同時に博多を離れる子の思い出になれば」と商店主らに呼びかけ、旧奈良屋小の児童を中心に寿通の子供山笠を創設した。
1980年(昭和55年)新天町商店街の泰松銀二郎氏と足立憲弘氏が、寿通の子供山笠を見て「新天町でもやりたい」「山笠を知らない転勤族や福岡部の子供達にも山笠の楽しみを知ってもらいたい」という思いを強くし、新天町での子供山笠を計画。しかし、子供山笠の山笠台を持ち合わせていないので河原氏に相談をしてみた所、寿通の子供山笠の山笠台を3年間借してくれるという事になった。新天町で山笠に出ている人は少なく、子供山笠の世話ができる人数が少なかったため、大勢の若手が大黒流の寿通に参加させてもらい山笠の勉強をして持ち帰ったという。
1986年(昭和61年)、新天町の子供山笠が初めて行われ、町内の子供や大名小、舞鶴小の小学生ら数十人が参加した。その後、河原氏の「新天町の子供山笠は、寿通の兄弟山」という好意を受け、新天町の子供山笠を継続できるようになったという。

飾り山笠焼失事件

1994年(平成6年)7月7日午前2時50分頃、新天町の飾り山笠が不審火によって全焼、焼失した。火が上がる直前、不審な男性2人が目撃されており、福岡中央署も放火の疑いもあるとみて捜査に着手したが、犯人検挙までには到らなかった。

舁き山笠の場合は、構成町が順番に夜警に付き7月15日が終わるまで24時間警備を行っているが、飾り山笠の警備は警備員に依頼することが多い。その日は5、6人の当番が残り、午後10時ごろに幕を下ろし山小屋のの電飾の電源を切って帰宅したという。飾り山笠は木と竹と紙で作られたものであるため、あっという間に燃え広がり、火元発見からわずか10分で山笠台を除いて全焼したという。

これまで山笠が火災にあったのは1798年(寛政10年)6月、市小路下の四番山笠で提灯の火が燃え移り山笠が焼けたという記録が残っているが、この火災はそれ以来の事件となった。この一件は、山笠関係者に衝撃を与え、飾り山笠の夜の警備について改められるきっかけとなった。

その他のエピソード

  • 戦後初の飾り山笠が立った1950年(昭和25年)、西日本新聞社が企画した『飾り山市民人気投票』に新天町も参加。得票2万2,514票で第1位を獲得した。
  • 1949年(昭和24年)、7月10日(日)マッカーサ元帥夫人の一行が新天町を訪れて大騒ぎになった。新天町に到着すると骨董品に飛び込んで赤絵の伊万里焼を手にして眺めていたという。その後、飾り山笠を見物し、「おおワンダフル」とほめちぎったという。
  • 1952年(昭和27年)山笠飾りをプレゼントする応募企画を行った。祭りが終ると人形等の飾りの処遇が難しかったので一石二鳥の企画だったようだ。
    表の弁慶の人形を引き当てたのは大浜の酒屋さんで、トラックで家まで運んだら近所で大評判になりふるまい酒が行われたらしい。牛若丸は鹿児島の大学生がたまたま買物に来て当てた。
    見送りの浦島太郎を当てたのは早良郡田隈村の人で、家に飾れないので近所の神社に浦島を奉納したようだ。大亀は太宰府の人が当てて急行電車に積込んで持ちかえった。乙姫は長崎、龍神は宮崎の人が当てたので、それぞれ汽車に載せて発送した。乙姫を当てた人は、博多に知人がいるのでその方に譲ったらしい。
  • 1955年(昭和30年)、山笠期間中に「永田ラッパ」という異名で有名な大映社長・永田雅一氏が来福。この年の飾り山笠は大映が製作した映画「新平家物語」を題材した飾りで、永田氏はその出来栄えに感激。”映画の宣伝を兼ねてぜひ東京で公開したい”と、東京での飾り山笠展示が実現した。8月18日から30日に銀座の松屋デパート吹き抜けのロビーに飾られた。どんたくに比べまだ知名度が低かった山笠だったが、山笠の名前を売り出す絶好の機会となった。
    1982年(昭和57年)には本土復帰十周年を迎えた沖縄に飾り山笠を送り、8月21日~31日に沖縄市の銀天街商店街に飾られた。

山小屋の場所

最寄りの交通機関

福岡市営地下鉄「天神」より徒歩3分
西鉄電車「福岡」より徒歩3分
西鉄バス停「天神新天町入口」より徒歩1分、「天神ソラリアステージ前」「天神大和証券前」より徒歩4分

新天町の長法被

新天町の「新」「天」の字をあしらった意匠を使用している。水法被は子供山笠の時だけ着用される物。

長法被
水法被