素焼きの陶器人形に色付けした、福岡を代表する国指定の伝統工芸品「博多人形」を作る職人。
博多祇園山笠では山笠飾りの制作・飾り付けを担当する。舁き山、飾り山の飾りを制作する人を総称して「人形師」と呼ぶ事が多い。
だが、よく「山笠の人形師」=「博多人形師」と思われがちではあるが、決して山笠の飾りを作る人=博多人形師ではない。
博多人形は塑像(土から作る人形)であるのに対し、山笠人形は竹などで骨組みを組んで紙や粘土を被せる人形と、製法が全く別の物である。
しかも山笠人形は、人形自体もケタ違いに大きく、金襴や博多織の衣装などを着せるのが特徴。
つまり山笠の飾り製作は特殊技術であり、博多人形師の中でも山笠人形制作に携わった事がある者しか山笠飾りを手掛けることは出来ない。
また、人形師は、自ら作った飾りを作るったり飾り付けを行うだけでなく、流の一員でもあるので実際に山笠の傍について共に走ってもいる。人形師も奉納を行う「参加者」なのである。
博多人形の発祥については諸説あり、1600年に黒田長政が福岡城を築いた時、筑前入国に伴って多くの職人が集められ、鬼瓦の細工物から焼き物作りの技法を学んだ職人が優れた作品を藩主に献上したのが始まりと言われている。また、19世紀前半に博多祇園町の住人が作り出した土俗素焼きの玩具人形が、博多人形のもとになったとも言われている。(これらの発祥の諸説は、陶師の『中ノ子家』、博多祇園山笠の小堀流山笠人形の流を組む『白水家』、瓦職人の『正木宗吉(宗七)』の三説が有力とされており、現在では学術的研究が進み中ノ子家より転業した中ノ子安兵衛・吉兵衛親子と、小堀流山笠人形の流れを汲む白水家との複合的要因が有力とされている。)
山笠人形についてだが、「永享九年三月に博多より京都に木偶師、土偶師を召抱えんと上京せしが、小堀善左衛門とて四条に居住せし木偶師(にんぎょう師)を召抱えて帰国す。櫛田神社内に居宅を作りて津中より扶持米を遣はし、其年の作り山に人形をつくりて甲冑を着せ旗織をささせ、さまざまの模様を作りて祇園祭礼を勤む」と資料にあるように、永享9年(1437)年3月、京都四条の人形師小堀善右衛門を博多に召し抱えて山笠人形を作らせた。小堀家は博多櫛田神社境内に移り住み、山笠人形の制作を代々行う事になる。ここから山笠人形については、長きに渡って小堀家及び一門が独占的に制作を行うようになった。
他の者による制作は許されなかったようだが、江戸期の天明元(1781)年から82年間の標題などを記した「山笠番付」によると、小堀家が他の人形師の制作した人形を手元に受け取った記述があり、人形制作の取りまとめをしていた様子が伺える。(なお、伝統を背負った小堀家のプライドもあるのか、他の人形師が制作した人形について「不出来なり」と評している。)
この件についての記録を探ると、宝暦2年(1752)に下市小路町の三苫惣吉がはじめてその町の二番山を作って以来、安永頃は2本共造り、その後も3、4本はその子孫が作っていたようだ。
また人形は下土居町の人形屋小堀甚三方が人形の首を色々持っていたので、各当番町で見立人形を選びその一つに白木綿一反、浴衣(木綿形付)、帯(博多織男帶)、足袋一足ずつを配布し、甚三方では人形の肢体を作ってそれを以て装束させた、とされている。各人形の前には八脚の机を置いて榊や御酒を供えて、5月28日には櫛田神社の神職氏が祓い(今でいう『御神入れ』)、これによって人形に一種の神格化して崇敬した、とされている。
しかし、明治期に入り、小堀家の山笠人形の独占権は維新と共に自然消滅したとされている。
現在では、人形師と総務や当番町、流の役員などが直接やり取りし、標題の決定、人形作りの塩梅などが決められ、製作されている。流の人達からは「(人形師の)先生」と呼ばれる事が多い。
山笠の人形師間の交流はあまりなかったが、平成9年4月に東流の山笠製作を請け負っていた藤和人師(当時57歳)が自宅の火事で急逝、製作途中だった飾りを9人の人形師が協力して飾りを完成させた。この事がきっかけとなり、親睦を深めると共に技術の向上、後継者の育成などを目的とした山笠の人形師で作られた団体「博多祇園山笠人形師之会」(初代会長 置鮎琢磨師)が2003年(平成15年)に結成された。
博多人形は、1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会と1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に出品され、その名は国内のみならず、海外でもたいへん話題となる。現在、東京大学総合研究博物館には、パリ万博で話題を集めた博多人形の技法を用いた「世界人類風俗人形」が収蔵されている。この高評価から、日本を代表する人形として「博多人形」の名で知られるようになり、海外へも輸出されるようになった。
1975年に、山陽新幹線が博多駅まで繋がったことをきっかけに、博多の名産品は全国に広がる。博多人形も博多観光みやげに飛ぶように売れ、1976年には、博多人形は経済産業大臣から「伝統的工芸品」として指定された。
このように、古くから作られ続けた博多人形は古来より福岡の代表的な御土産品としても有名で、福岡県を代表する民謡の一つである正調博多節では「博多へ来る時ゃ 一人で来たが 帰りゃ人形と 二人連れ」という一節も謡われている。
かなりの余談ではあるが、1989年1月20日、福岡国際センターで行われた全日本プロレスの新春ジャイアントシリーズで、試合後「マイクの鬼」ことラッシャー木村がジャイアント馬場に「アニキ! いつも博多来ると明太子ばっかり買うけど、今回は博多人形買おうな! 2つ買って、俺に1つくれよ!」とマイクパフォーマンスをして喝采を浴びたのは(プロレスファン的には)有名な話エピソードである。