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博多祇園山笠用語辞典 YAMAKASA DICTIONARY

水法被(みずはっぴ)

舁き山笠を舁く際に着用する祭り装束。
山舁き中に頻繁に勢い水を浴びるところからこの名称が付けられたと思われる。

素材は木綿。丈は腰まで、袖は肘まで・・・と当番法被に比べかなり短い。「肩手ぐり」とも呼ばれる。
色は白色と紺色があり、町によって異なる。
前面は開いており、紐などは付いていない。縁には町名や流名が染め抜かれている。
背中には所属の紋が染め抜かれている。紋は、流や町の名称を一文字取ったパターンと、当番法被と同じデザインものがあり、それぞれ流や町によってデザインが異なる。背中を見ることで、一目でどこの流かが見分けられるようになっている。
流や町によっては、袖に所属の町を表す肩章が縫い付けてある。

集団でこの法被を着て行動すると、ハッとするような感動を覚えるほどデザイン性が高く、国内以外で評価が高い。
1977年(昭和52年)に東流から参加したファッションデザイナーのやまもと寛斎氏は、町内で柄の違う水法被について「洗練されている。水法被に締め込み姿は男の素晴らしいファッションだ」と褒め上げている。

水法被着用時は、胸下辺りで裾を固く結ぶ。これは山笠の前で転んだ場合、法被に手を掛けコース外に放り出すことが出来るため。いざとなった場合、法被が緩いと法被が脱げて山の下敷きになりかねないため、必ず固く結ばなければならない。

『水法被』の登場

江戸時代までは上半身裸、下半身は締め込みのみといういで立ちで祭りを行っていた。江戸初期に製作された「山笠絵図屏風」には、舁き手は上半身裸で色とりどりの締め込み姿の絵が残っており、現在の山舁きスタイルとはかなり違っている事が分かる。

明治31年(1898年)、曾我部福岡県知事が山笠の中止を提案し、福岡出身の市会議員多数が同調して原案通過の形勢となった。
中止の理由は「山笠が高いので電灯線を切る」だったが、実際の所「半裸の男が町を横行する」「暴飲暴食で非衛生」なども問題視されていた。時代は西洋文明が流入している頃で、半裸であることが野蛮であるとされ、国際的先進国をめざす日本の文明開化の路線にそぐわない・・・と見なされていた事が背景になっていたと見られている。

旗色の悪い山笠存続派は、玄洋社社長進藤喜平多氏の紹介で、当時、東京から九州日報主筆に着任したばかりの古島一雄氏への助力を懇願。古島氏は翌日から社員の先頭に立って連日、山笠中止反対の筆陣を張った。古島氏が筆剣鋭く『山笠こそ地方自治の根本』と一ヶ月主張し続けた。県市当局は困り抜いて 古島氏に仲裁を頼み、古島氏は櫛田神社の存続派の集会に出て「強いばかりが男じゃない。もうこのへんで手を打つころだ。第一、電線が邪魔になるなら山笠の頭を切ったらよかろう。半裸が悪ければ、そろいの法被を作ったらどうか」と提案。これを受けて妥協が成立し、中止案は撤回された。
これにより、博多の山笠は山舁きを行う背の低い「舁き山笠」と、舁かずに奉納を行う背の高い「飾り山笠」に分離。そして、半裸だった舁き手らは水法被を着用する事になった。

ただ、昭和初期は、”個人的に”古来の習わしを護っている人が多かったらしく、博多祇園山笠期成会(現在の振興会の前身)は、とくとくと「裸で参加しない事」と各流に対して周知するよう力を注いでいる様子が資料に残っている。

箱崎縞

上記の騒動を受けて、明治の中ごろから水法被を着るようになるが、その法被の起源は箱崎縞とされている。
箱崎縞は、明治初年ごろ箱崎地区で発生した素朴な木綿織で、明治末から敗戦前夜まで箱崎地区で小規模に生産されていた織物。特徴は独特のたて縞模様。農山漁村の仕事としてよく使われていたとされ、昭和になって消滅すると法被の布も久留米かすりに代わった。

戦中の水法被

昭和初期の戦中時代の写真を見てみると、博多の婦人達がモンペ姿に水法被を着用している写真が残っている。
当時の資料を読むと、防空演習の時は水に濡れてもいい服を着用する事となっていたようで、水法被なら水に濡れても大丈夫で素材も丈夫。しかも一目でどこの町内かが分かる・・・という事で、山笠の水法被が婦人達の防空演習の服に選ばれていたらしい。

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