子供山笠は、小学生の児童による舁き山笠行事。舁き山笠は子供サイズではあるが、大人の舁き山笠の3分の2サイズで、重さも約500キログラムある。
毎年7月最初の週末に開催され、現在は博多小学校の児童が行う子供山笠「博多流」、千代流が運営する千代流の子供山笠、天神の新天町商店街が運営する新天町子供山笠の3つある。
また、博多小学校の子供山笠に参加する形で、RKB毎日放送主催の「RKB博多子供山笠教室」も行われている。
子供山笠の歴史は、戦後の山笠の復興と共にある。
1945年(昭和20年)6月19日、福岡大空襲で焦土と化した福博の町。そのまま8月15日に終戦を迎えるが、人々は生きるのに精一杯で祭りどころではなく、山笠は中止せざるを得なかった。人々が生きるのに必死な時代、福岡市長である畑山四男美氏は市の行く末に危機感を覚え、当時市議で奈良屋校区復興組合長をしていた落石栄吉氏に相談を持ちかけたところ、『よござす。いっちょう「どんたく」と「山笠」ばやりまっしょう』。この頃は博多一帯はまだ焼け野原で、食べ物も物資も乏しい苦しい時期。祭どころではなかったが、5月20日に被害の一番大きかった奈良屋校区に電灯が復旧した事も受け、博多の伝統ある祭の再興と市民の士気を鼓舞するという願いをこめて『博多復興祭』が計画、開催された。
物資不足の中、材料をかき集め山笠が作られた。山笠は5メートル四方の一回り小さなサイズで、人形を作る物資もないので小学校の先生に豊臣秀吉の絵を描いてもらい、それを乗せた簡素な舁き山笠が用意された。肝心の舁き手は戦地に送られていなかったため、子供達に舁かせることにした。子供達が着る法被も空襲で燃えてしまったので、近郊の農家から借りた絣を法被にし、帯地を利用して締め込みにした。市内の通りは瓦礫の焦土が路上に70センチも堆積し、人がやっと歩けるほどだったが、落石氏が福岡市復興部を動かし皆で協力してわずか3日間で約6キロメートルをきれいに整理した。
なお、山笠と一緒に開催されたどんたくも、物資不足から肩衣や裃も紙で作り、三福神の馬もいないので張り子で馬を作ってそれに人間が入ったという。
子供山笠の標題は商工会議所から懸賞募集してもらった『みんなの博多、みんなの復興』。こうやって、5月25日に『博多復興祭』が開催された。3日だったが『オッシュイ、オッショイ』と子供たちの勇ましい掛け声が博多の町に響き、福岡市民を元気づけた。中には涙を流して喜んだ人が何人もいたという。
活力が戻った博多の町に山笠復興の機運が盛り上がる。1947年(昭和22年)七流の当番町の代表が集まり協議を行うまでになったが、人員や費用の面から無理との意見が強くこの年も山笠行事は見送られた。代わりに、西浜町と恵比須町に子供山笠が2本作られ子供山笠が行われた。
なお、大人の山笠が復興したのは1948年(昭和23年)でこの年の追い山笠・追い山笠馴らしは櫛田入りのみ。距離が短縮ながらコースが復活したのは1949年(昭和24年)である。 1950年(昭和25年)には唐人町、簀子町、新大工町、西公園、姪浜魚町にも建てられ、1952年(昭和27年)には西門橋通町内の青年有志が、1954年(昭和29年)には千代流の宝来町に住む染井藤太郎氏が子供山笠を寄付して子供達が担ぎ回ったという記録も残っている。
1971年(昭和46年)博多区下川端町の寿通商店街で紳士服店を営んでいた河原由明氏が「後継者の育成と同時に、博多を離れる子供達の思い出になれば」と商店主らに呼びかけ、奈良屋小の児童を中心に子供山笠を創設した。六本の棒、山笠台などすべて新調され、重さは約四百キロもある本格的な山笠が作られた。
1977年(昭和52年)には寿通の子供山笠が平和台球場で行われたクラウンライターライオンズvs南海ホークスの試合の前に、球場に子供山笠を舁き入れ、ライオンズファンの大歓声と選手がかける勢い水をあびてグラウンドを突っ走り、ライオンズベンチ前で手一本を入れた。なおこの年の標題は『がんばれ、ライオンズ』。
1982年(昭和57年)より、寿通りの子供山笠は3日間の開催のうち2日間を博多地区以外の子供達以外にも開放。「山笠教室」を開き実際に子供山をかいてもらう形を取り、博多地区商店街連合会 「博多のまち」 とRKB毎日放送がバックアップし「RKB博多子供山笠教室」が始まった。
1986年(昭和61年)、「山笠を知らない転勤族や福岡部の子どもたちに、博多祇園山笠の楽しみを知ってもらいたい」という気持ちから、寿通の子供山笠から舁き棒を譲り受けて、新天町の子供山笠が始まった。
1987年(昭和62年)、創立百周年を迎える千代小学校の記念事業として、千代流の子供山笠が復活。千代流運営委員会が資金を積み立て準備し、小学校に山笠一式を寄贈した。
1997年(平成9年)、旧博多部の4つの小学校が4月1日統合され「博多小学校」が開校した。これによって寿通りの子供山笠が引き継がれ、博多小子供山笠が始まった。
博多小学校では、博多の文化と文化を学ぶ授業の一環として子供山笠が行われている。 生徒達は毎年5月から準備を開始。男子生徒は「舁き手」体験を通して、女子生徒は「ごりょんさん」として木札や手拭を手作りで作成したり、流舁き後の豚汁づくりなどを行う体験を通して、博多の文化を学習する。またその他にも「人形師」体験として、山笠に飾る人形も生徒達の手で作り上げられる。 各作業には、PTAや山笠に参加する地域の男性で構成された『はっぱの会』(博多のパパの会)のサポート。また、長年世話人を務めた河原由明氏、河原由紀夫氏が大黒流の寿通だったことから寿通の町の人々も共に世話役として参加する。 なお、授業の一環であるため、行事を行った後は必ず『帰りの会』が行われる。縄ない・棒締め・試し舁きの日は、帰りの会で今年の標題とテーマが発表される。 流舁きは毎年7月の最初の週末、金曜・土曜・日曜の午後に行われ、金曜日は小学校前から舁き出され奈良屋地区・大浜地区を舁き回る。 この一連の模様は、RKB毎日放送が密着取材を行い、子供山笠が終わった翌週以降の週末に1時間の特番にまとめられて放送される。 学年によって役割が分担されている。6年生は表の舁き手、5年生は見送りの舁き手、4年生は後押しを務める。台上がりと前走りは低学年が務めており、男子・女子共に山笠に参加する。 山笠に参加している生徒は自前の水法被を着用、山笠に出ていない子供は「博多小」と染めあげられた白い水法被を着用。様々な法被が一つの山笠を舁く珍しい光景を見ることができる数少ない山笠でもある。 多くの生徒に台上がりを楽しんでもらうために、数十メートルごとに台上がり交代ポイントが設けられ、都度山笠を止めて台上がりの子供達を交代する。これは舁き手の体力的な事も考慮されており、舁き手は数グループに分かれて交代で山笠を舁く。交代した生徒は先走りして、次のポイントに先回りして交代を待つ。 先走りする舁き手の6年生の中から、先生が都度声出し係を任命。「元気を出していくぞー!」(オー!)「いーち!にーの!ヤー!」の掛け声で舁き出される。まれに「気合を入れていくぞー!」と声をかける生徒もいる。 2日目と3日目に櫛田神社に入り、櫛田入りタイムを計測する。舁き手は3グループに分かれ、それぞれ1回ずつ、合計3回チャレンジが行われる。子供山笠とはいえ、櫛田神社の神職が大太鼓を叩き、太鼓櫓からは振興会の役員らが子供達の頑張りを見届けるなど、本格的な行事である。 櫛田入りの日は桟敷席が無料開放されており、激励の横断幕を持った女子児童やOBとなった中高生、子供たちの雄姿を見届けようとする保護者達、当番法被を着た山笠関係者などなどが多数詰めかる。また清道の壁の周りには、山笠教室で座学を終えた参加者の子供達が並び、山舁きの見学を行う。桟敷席、清道内にはかなり人が入るため、なかなかの混雑ぶりを見せ、その分歓声も多い。 舁き出し前には各チームが円陣を組んで気合を入れていく。6年生達の気合の入り方、そして生徒以上に気合が入りまくっている先生たちのテンションも注目ポイントである。 櫛田入りは、太鼓台の前から舁き出され、清道旗を回って太鼓台まで戻ってきた所でタイムが計測される。これまでの最高記録は2024年の3日目に打ち出した23秒台で、その記録を越えようと頑張る姿が子供山笠特番の目玉となっている。 RKB子供山笠教室は博多外に住む一般の子供が山笠に参加できる山笠イベントで、2025年時点で41回目を迎えた。スポンサーとしてハウス食品が協賛しており、教室が終ると参加者全員にお土産としてハウス食品の詰め合わせがプレゼントされる。 7月最初の土曜日・日曜日に開催され、まずは櫛田神社の櫛田会館で着替えを行った後、山笠の歴史や山笠の舁き方や掛け声の掛け方などを学ぶ座学「RKB博多子供山笠教室」が行われる。講師は櫛田神社宮司、博多祇園山笠振興会会長が務める。 座学が終ったら、清道に移動して、博多小子供山笠の櫛田入りを見学。櫛田入りを見学し終わったら、冷泉閣ホテル付近まで移動して博多小の生徒が舁く子供山笠に台上がりする山かき体験を順番に行っていく。参加者はグループに分かれ、十数メートルごとに設置された交代ポイントで交代で台上がりを行う。 千代流の子供山笠は、毎年7月の最初の週末、金曜・土曜の2日間に渡って行われる。千代流の地域は広いため、地域を二分割して金曜・土曜に舁き回るようにしている。コロナ禍前までは金・土曜日が流舁き、日曜日は大人がトラックで山笠を櫛田神社まで運んで櫛田入りを行っていたが、コロナ禍以降は金・土曜の二日間の開催となっている。 舁き廻りコースの要所要所には交代ポイントが設けられており、台上がりと舁き手の子供達が交代して舁き回っていく。 子供山笠に使われる飾りは、大人の舁き山笠の人形を手掛ける博多人形師が手掛けており、大人の山笠の人形が子供の姿になったテーマで作られる。(写真は左が大人の舁き山笠の母里太兵衛で、右が子供山笠の幼少期の母里太兵衛) 流舁きで当番町がある地域を舁く日は、山小屋前まで舁き入れて大人の山笠と表を向け合う『親子対面式』を行う。大人の山笠は山小屋から出され、そこに子供山笠が到着すると、山笠同士表を向け合う。子供側、大人側からそれぞれ激励の口上を述べ合い、最後に手一本を入れて締められる。 大人と子供で対に制作された人形飾りだからこそ実現できる、千代流の子供山笠独自の行事である。 子供山笠が終わった後、飾りはベイサイドプレイスの「ベイサイドアクアリウム」(巨大な円柱形のアクアリウム)前などに展示される。 子供山笠初日のお昼に御神入れの神事を行い流舁きに臨む。神事には子供たちの他、山大工、千代流の関係者が列席して無事奉納を祈願する。 舁き出しは午後3時頃から。子供山笠は校門前に据えられ、舁き出しの時間が来たら大人の山笠同様に山揺らしを行いながら台上がりした男児生徒が祝いめでたを謳い上げる。祝いめでたが謡い終わると同時に舁き出される。 新天町の子供山笠は、毎年7月の最初の土曜日に行われる(※2025年時点)。飾り山笠の山小屋横から舁き出し、周辺の主要ショッピングセンターに表敬をしながら舁き回る。 新天町は山笠を舁く地域ではないが、「山笠を知らない転勤族や福岡部の子どもたちに、博多祇園山笠の楽しみを知ってもらいたいという気持ち」という思いから始まっており、近隣の小学校やボーイスカウトの子供らが参加して山笠を舁いている。
新天町の子供山笠の人形飾りは、飾り山笠を手掛ける人形師が手掛けており、7月1日の午後に行われる御神入れの神事では、飾り山笠と共に櫛田神社の神職によって祓い清められる。 子供山笠開催日の舁き出しは午後3時。午後2時過ぎに山小屋の横に据えられ、2時半過ぎ頃から子供達による手打ちが始まる。 なお、サポートを行う新天町関係者は水法被を着用。背中に「新天町」と書かれた水法被を目にする事が出来るのはこの子供山笠の時だけである。
午後3時、新天町のシンボルであるからくり時計「メルヘンチャイム」が「アビニョンの橋で」を演奏を開始。そのメルヘンチャイムが終ると「3!」「2!」「1!」「ヤー!」の声と共に新天町の子供山笠がスタートする。
子供山笠は台上がりの子供達を交代しながら、福岡パルコ、ソラリアステージ、ソラリアプラザ、三越岩田屋といった大手ショッピングセンターを表敬訪問し手一本を入れて回る。
まず注記として書いておかないといけないのだが、新天町の子供山笠が始まった年については、メディアや資料によって異なるため判断が難しい。
2001年(平成13年)の新聞記事には『88年には大人の舁き山笠がない同市中央区天神2の新天町にも子供山笠が誕生』と紹介。2011年(平成23年)の記事では『博多部以外の子どもにも山笠の魅力を知ってもらおうと1986年に始めた。』と書かれている。
つまり、新天町子供山笠の開始年は、1986年、1988年、1991年の3つの説が存在しており、この件についてナビ的要調査案件となっている。 閑話休題。 (なお、山笠を始めるにあたり、河原氏から「山笠に出とらん人がお世話はできまっせんめーもん」と世話人問題を提示され、昭和55年から新天町の若手約25名が大黒流の寿通の山笠に参加し、山笠の事を学んだという) しかし、山笠台は借り物であるため、「新しく自分たちの山笠台を作りたいが、博多部外でありしきたりの厳しい世界だからどうしたものか」と河原氏にそうおだんしたら「新天町の子ども山笠は寿通の兄弟山である」という英断から寿通の子供山笠の舁き棒を譲ってもらい、新天町が自前で持つ山笠台が初めて出来上がった。
1957年(昭和32年)の記事によると、「五十何本かの子供山笠が建ったことがある。」とも書かれている。全てが舁かれたわけではなさそうで、据え山や絵だけのものもあったようだが、なぜこれだけの数になったかという事について、大人の山笠は博多から出てはいけないが子供山笠ならいいのでは?と数多く作られたのではないか、と推測されている。
また、この年上川端通も子供山笠を作って子供だけの山笠を開催。冷泉小にて『博多山笠教室』を開き、上川端商店街連合会の若手らが講師となって子供達に山笠の歴史や舁き方などを説明している。
博多小子供山笠『博多流』
毎年7月の最初の週末、金曜・土曜・日曜の3日間に渡って行われる。土曜・日曜の2日間は櫛田神社にて櫛田入りを行い、『RKB子供山笠教室』の参加者と合流して流舁きを行う。スケジュール
6月中旬の土曜日に行われる舁き縄作り(縄ない)、棒締め、試し舁きでは、教員と協力して指導・サポートを行い、流舁きもサポートとして子供達のチェックや沿道の人員整理、大通りでの山笠の移動などを行う。
土曜日は蓮池の坂から舁き出され、御供所地区の桶屋町付近を舁き回った後、櫛田神社に向かい櫛田入りを3本行う。その後、『RKB子供山笠教室』の参加者と合流。教室参加者の子供を台上がりさせながら、上川端地区を舁き回る。
日曜日は店屋町から舁き出され、、櫛田神社に向かい櫛田入りを3本行う。その後、『RKB子供山笠教室』の参加者と合流。教室参加者の子供を台上がりさせながら、上川端地区を舁き回る。
(ただし、7月の最初の週末に行うため、7月1日が土曜日に重なったため変則的に2日間だけの開催となった年もある。)
参加者
掛け声
櫛田入り
RKB子供山笠教室
参加資格は小学生男児。毎年5月下旬から応募が始まり、2日目150人、3日目150人、合計300人の男児が参加する。
千代流子供山笠
千代流が運営し、千代小学校の生徒が参加している。そのため先生や千代流に参加する男たちがサポートを行ってる。
山笠飾り
舁き出し
新天町子供山笠
子供山笠の歴史は30年を超えるがコロナ禍の影響で2020年から休止。4年間の休止期間を経て2024年に復活した。以前は土曜・日曜の2日間行われていたが、コロナ禍による”空白”期間の影響で、2024年以降は現在の所土曜日だけの開催となっている。
子供山笠のスケジュール
飾り山笠の山小屋は新天町サンドームのメルヘンチャイム前に建てられているが、子供山笠は山小屋の対面位置となるPRONT前に展示され7月14日の夕刻まで展示される。
週末の買い物客、しかも恒例の新天町山笠バーゲン開催中、歩道には露店の列、そして参加している子供の保護者が我が子の雄姿を写真や動画に収めようと集まるため、舁き出し前のメルヘン通りは大混雑となる。
歴史
新天町のサイトでは「1980年(昭和55年)に思い立ち、1988年(昭和63年)に初めて開催した」と書かれているが、2006年(平成18年)に発刊された『新天町60年史』によると1986年(昭和61年)の項に『子ども山笠始まる』と書かれている。一方で、博多祇園山笠振興会の四十年史では1991年(平成3年)の項に『寿通、千代流に加えて、今年は新天町にも子供山笠が登場』と書かれている。
※なお、2025年時点では『新天町60年史』に書かれている1986年(昭和61年)を開始年として採用することにしている。
新天町の子供山笠の歴史は、商店街の泰松銀二郎氏と足立憲弘氏が、寿通の子供山笠を見て新天町でもやりたいと話し合い、寿通の子供山笠の世話人である河原由明
氏に相談。寿通りの子供山笠の山笠台を3年間限定で借りて子供山笠を開始。とても好評を得た。