博多の風俗やしきたりを模範とした文化の伝播現象の事。
博多は古来より商都として栄えてきた。その華やかな都市の文化は周辺の町や村に影響を与え、博多を模範とした祭りやしきたりを生み出しており、北部九州ではこの現象を『ハカタウツシ』と呼んでいる。『ハカタナライ』や『ハカタマネビ』という言い方も確認できている。
この現象は、古来最も栄えた都市・京都の祇園祭が伝播し、日本各地で独自の形式を取りながら広がっていき、現在「祇園祭」と名付く祭りは35個以上存在する。博多祇園山笠も同様で、疫病を鎮める祇園信仰の文化伝播を受けた物である。
京都から博多へ、博多から九州北部の地方へ。「ハカタウツシ」は、商都・博多の文化が各土地の文化と結びついて新たな文化を形成した物で、その最たるものは「祇園山笠」であり、北部九州一帯に100ヶ所以上も分布していると言われる。
ハカタウツシで伝播した山笠行事を、形状で整理していくと、5つのグループに分けることができる。
屋形や岩、滝、人形などの部品を組み上げる「岩組山」と呼ばれる飾りの形式の山笠。
「芦別健夏山笠」(北海道芦別市)は、昭和60(1985)年に始まった、最も博多から離れたテレビというメディアから伝播した希少なハカタウツシの祭。博多祇園山笠振興会が正式に認めた唯一の博多の兄弟山笠である。
江戸時代、博多の櫛田神社から津屋崎(※現・福岡県福津市)に祇園神と共に山笠が遷されて始まったもので、博多に比べて形は少し小振りだが、よく似ている。『田舎山』とも呼ばれる。
「津屋崎祇園山笠」は正徳四(1714)年に博多の櫛田神社から祇園社の神をお迎えして3基の山笠を奉納し、疫病、災害の退散を祈願したことが始まり。 山笠は、漁業を中心とした「北流」、商業を中心とした「新町流」、農業を中心とした「岡流」、の3つの流れで組織されている。
佐賀県東松浦郡一帯の山笠で、博多と同じ「岩組山」だが前後に人形を張り出して飾る特徴がある。
「浜崎祇園山笠」(佐賀県唐津市浜崎)は、1753年(宝暦3年)に浜崎の網元であった中村屋久兵衛が商用で京都に行った際祇園社に参拝し、その帰途に博多祇園山笠の賑いを見物して感動したことから、大漁、商売繁盛、五穀豊穣を祈願する3台の山笠を、私費を投じて奉納したのが始まりで、当初は博多の飾りを借り受けて山笠を作っていたが、次第に浜崎独自の形態に変化。高さ約15mもある山笠が、お囃子とともに町内を巡る。
博多と大きく違う興味深い点は、明治時代に電線が登場した際、山笠の邪魔になるなら電線はいらないと地元が反対。着地点として毎年祭の期間中だけ地中に埋設することで折り合いをつけた。しかし、戦後は、道路が舗装されたことで電線の埋設ができなくなり、本来の浜崎祇園山笠の形態が無くなってしまうことを危惧した地元が電柱を高くし、再び高い山笠を運行できるようにした・・・という博多と逆の解決方法で祭りを存続している。
「岩組山」だが、左右に飾りを張り出すところに特徴がある。使う人形も博多と異なり、文楽系の顔をした木製の日田人形を使用する。
「日田祇園祭」(大分県日田市)は、豆田八阪神社・隈八坂神社・竹田若宮神社の三社の祭礼行事。寛文5年(1665)頃は小規模な舁き山を作り、鉦や太鼓をたたいて回っていたが、正徳4年(1714年)には山鉾が作られるように変化した。平成28年には博多の山笠と共にユネスコ無形文化遺産に登録された。
博多の形状とは違って、曳き山で「屋台山」と呼ばれる。館や人形を横に開くように飾るのが特徴。
代表的なのは、福岡県直方市の「直方山笠」、北九州市八幡西区木屋瀬の「木屋瀬祇園山笠」、前原市加布里加布里の「加布里山笠」など。
「直方山笠」は、明治時代に炭鉱の集積地として栄えたところで、当時は高さ17mを超える巨大で絢爛豪華な山笠をゆっくりと曳いたという。
「木屋瀬祇園山笠」は江戸時代の宿場町として栄えたところで、旧宿場部分の本町本町を「福岡」、新町を「博多」と通称していたという。街道沿いに伝播した事から「博多の山笠は飯塚から木屋瀬に来て、黒崎で終わる」という云い方もあるという。
「加布里山笠」江戸時代には海運の港町として栄えたところで、寛延3年(1750)大火災と疫病流行を機に始められたもので、地名や飾りなどに博多とのつながりを示すものが多い。