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博多祇園山笠用語辞典 YAMAKASA DICTIONARY

山笠ナビ博多祇園山笠用語辞典ふくおか/ふくおかぶ

福岡/福岡部(ふくおか/ふくおかぶ)

九州地方北部に位置し、県庁所在地は福岡市。九州地方最多の人口を擁する市であり、西日本においても大阪市に次ぐ人口を擁する。福岡市と北九州市の2つの政令指定都市を抱え、いわゆる三大都市圏以外では人口密度が1,000人/km2を超える唯一の県である。

山笠においては、「福岡」というと「天神」方面の事、いわゆる「福岡部」の事を指すことが多い。その際は博多の事は「博多部」と呼ばれる事が多い。
福岡部と博多部を総称して「福博」と呼ぶ事もある。

「福岡部」と「博多部」

福岡市の東西を分けるかのように流れる那珂川を境に、西側が「博多部」、東側が「福岡部」となっている。

博多部は、3世紀後半頃から港を起点に貿易が盛んに行われ、遣隋使・遣唐使から始まる外交と交易の中心であった。中世になると、大商人達による合議制で治められた日本史上初の自治都市・商業都市として繁栄した町である。「博多」というと現代においては博多駅周辺のエリアを指す事が多いが、「博多部」と呼んだ場合は南北は博多駅からマリンメッセ手前、東西は那珂川から御笠川の間の地域となる。ただ、現在では山笠の七流がある地域という認識も強い。

一方、福岡部は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、黒田長政が入国。筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことにより、福岡藩が成立した。黒田長政は、那珂川の西側に福岡城とその城下町である「福岡」を築いた事から、武士の町として栄えることになる。

このように、古代から商人の港湾都市として栄えた「博多」に対し、「福岡」は江戸時代に黒田氏が封ぜられ福岡城を中心に栄えた武家町と、似て非なる性格を持つ二極都市が川を挟んで存在する事になり、成立の歴史の違い、住まう身分の人間の違いにより、両地域が深く交わる事はあまりなかった。
(江戸時代、山笠では黒田家の姫君が東長寺から上覧したり、博多松囃子では松囃子の一行が福岡城の藩主黒田家を訪問するなどといった、祭を介した両地域の行き来はあったようだ)

なお、江戸元禄(1680)年代に貝原益軒がまとめた『筑前国続風土記』によると、福岡部が15,000人、博多部が19,000人住んでいたとされ、町数は福岡部が23町、博多部が103町あったと伝えている。

明治22年(1889年)に博多と福岡をまとめて1つの市「福岡市」として市制施行が決定した際、博多部の人から「福岡市」という名前に猛反発が巻き起こった。この名称争いは深刻で、全市をあげての大論争騒ぎとなり、福岡派と博多派が互いに激しくやり合ったと言われている。当時の福岡市内の人口は、博多地域が25,677人、福岡地域は20,410人で(その他地域1,530人)。議員数も博多17名に対し福岡は13名と「博多」がやや優勢と思われた。
しかし、翌1890年(明治23年)第2回市会が「名称問題」で紛糾。「博多市にすべき」という主張を建議に掛けて議員投票に持ち込むが、大詰めを迎えたこの日、3名の議員が欠席し、13票対13票の同数となる事態になる。(この時欠席した博多派議員は、トイレに軟禁されたのではないかという説もある)。
そこで元武士階級で福岡部出身の議長が議長席を降り一議員として福岡に投票した事で「福岡」と決し、わずか1票の差で博多の人達は涙を飲んだ。
なお、その騒動が激しかった明治22年に博多~千歳川(久留米市にあった仮駅)間の国営鉄道が開業。その駅の名前を「博多駅」という名前にする事で、「福岡市」という名前に反対していた博多部の人達と痛み分けの手を打った・・・と言われている。これが福岡市なのに「博多駅」なのはこういう理由である。

以後、博多・福岡をまとめて1つの市「福岡市」として市制施行されて以来、現在に至る。
(なお、1972年の政令指定都市昇格に伴いって「博多区」が設置された事で、明治23年来博多の人が夢見た行政区「博多」が生まれた)

このように、「福岡」と「博多」は、発展した過程や町の性格、時代背景が異なった地域であるため、特に博多に長らく住む人には互いを並べる事に違和感を感じる人が少なくない。逆に福岡部側の人はそこまでこだわりがない人が多い。
そのため、福岡部の話を”博多”で括ったり、また博多部の話を”福岡”で括ったりすると訂正が入ったり、他県で「博多天神名物」や「福岡博多名物」という言葉を見ると「あそこは(福岡の歴史を知らない)もぐりだ」と機嫌が悪くなる人もいたりする。再度書いておくが、福岡部側の人はそこまでこだわりがない人が多い
博多の人が「博多」という土地に対し愛着とプライドを持っている事がよく分かるエピソードであるので、博多の人と会話をする時は要注意である。

福岡部と山笠

以上のように、博多部と福岡部は交わることがなく、また、博多の人が博多という地域に絶大な尊厳を抱いている事から分かるように、博多部の祭りが福岡部に入るということなどはまずあり得なかった。

博多部の山笠が、初めて福岡部に出来たのは大正元年頃との事。全市にコレラが流行し山笠行事が中断した。その時、福岡部唐人町の木立伊之吉が子供のために子供山笠を舁いてコレラ退散を祈ったという。(のちに博多部も子供を作ったという)。

昭和10年(1935年)、翌年春に開かれる博多築港博覧会に展示するため、恵比須流が追い山笠終了後に中島橋を渡って福岡市役所に舁き入れ、「手一本」を交わして当時の市長である久世庸夫市長に引き渡した。この舁き入れがこれが山笠史上初の福岡部舁き入れとなっている。

1949年(昭和24年)、第二次世界大戦終戦後初めて行われた復興山笠では、中洲と新天町に初めて飾り山笠が建つ。那珂川を渡って山笠が福岡部に進出したのはこれが博多山笠史上初めての事。(※新天町の成り立ちが、博多が福岡大空襲で焼け野原となった際、博多商人の商店主たちが結集し天神町に商店街「新天町」を作った事から、山笠を作るその”下地”はあったものと思われる)
以後、福岡部には因幡商店街や唐人町など商店街を中心に飾り山笠が建つようになっていく。

舁き山笠では1952年(昭和27年)に現在の福岡市中央区渡辺一丁目に、南流(現在の渡辺通一丁目)が創立され、福岡部では初めて舁き山笠を奉納した。南流は1959年(昭和39年)に舁き山笠奉納を休止しており、以後福岡部からの舁き山笠奉納は行われていない。

昭和37年、福岡市より「県内外の観光客誘致」「市民的盛り上がり」を目的に福岡部への舁き入れを要請されたのを受けて、7月13日、広汎な全市民的規模に盛りあげるため、従来の”他流れ舁き”を、福岡部まで順路を延長し『集団山見せ』が始まった。複数の舁き山笠が山笠期間に福岡部にわたるのはこれが史上初の事である。
もちろん、この時も検討段階で「福岡部に繰り込むのは山笠の歴史に例がない」「山笠は奉納行事であり、見物中心のパレード化はもってのほか」として反対意見が出ており、実際、土居流は『集団山見せは古式にのっとった行事ではない』『山笠はあくまでも櫛田神社への奉納神事であるべきで観光行事ではない』として不参加を表明し、参加していない時期がある。

また、6月28日から始まる飾り山笠の人形飾り付けにおいて、人形師は「左側」を指示する際に「福岡」と指示をする事もある。これは博多から見たら福岡は左手側(西側)に位置するため。これは、飾り付けの指示をする際、対面の「右」「左」の指示だと「素山」に上った山大工らがの混乱を起こしてしまうので、地元の者なら絶対分かる位置関係を地名で表している。人形師によっては「姪浜」とも言う人もいる。なお、右側は「箱崎」という地名が使われる。

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