古くは魚町流と呼ばれ、西門橋から西へと伸びる横筋を区域とした流。
昭和41年(1966年)に行われた町名町界整理後の現在の住所においては、上呉服町ならびに店屋町が相当する。
福神流はかつては博多祇園山笠に参加していたが、明治38年(1905年)6月13日(旧暦)の追い山笠馴らしの時に、時計係が太鼓と雷鳴を聞き誤り山留めの竿を上げてしまった事で、二番山の福神流が定刻より1分速く櫛田入りしてしまう。それを受けて三番山以降の各流も時間を無視して出てしまい、その結果、東長寺清道から承天寺清道の道に五本の山が並んでしまう前代未聞の事件になってしまった。
この騒ぎは後々まで論争となり、最初に間違ってスタートしてしまった福神流はその責任を取って以来不参加を貫いている。(1961年(昭和36年)の新聞では「あやまれ、あやまらぬで大もめ、顔役連中の仲裁もラチがあかす『エーめんどうくさい、やめた』とばかりに福神流が山をたたきくずしたのが十四日。」と紹介されている)
翌年からは、中洲流の加勢町として参加。
しかし昭和41年(1966年)に中洲流より法被の統一を要請され、伝統の法被を脱ぐ事は出来ないとし昭和46年(1971年)まで山笠に不参加となる。
昭和47年に「山笠に参加出来ない子供達が不憫」であるという嘆願により東流の前走りに参加するも、昭和60年(1985年)東流の「法被を脱いでくれたら本流に」という誘いに対し、流内の協議の結果、伝統法被の継承を採択しまた不参加となる。
昭和61年(1986年)より恵比須流に参加を依頼され、現在に至っている。
昭和40年の中洲流れに加勢町として参加する事に尽力したのが、西門蒲鉾の上田利一氏。中洲流に所属していた兄の津上岩次郎氏に頼んだ事で加勢町を務めた。昭和47年の東流に前走りを嘆願したのも上田氏の尽力である。
雷鳴事件から6年経った大正2年(1913年)、福神流は能当番を務める事で山笠に復帰した。
戦中の山笠中断を受けその当番も中断せざるを得なかったが、1951年(昭和26年)から復活した。
しかし、昭和39年(1964年)元々8ヵ町だったのが3ヵ町に減ってしまったため継続できないとし、能当番を返上した。現在は櫛田神社が能を奉納している。
上田利一氏の御子息は、チューリップの上田雅利氏という事は有名な話。雅利氏はこの福神流の歴史を元に『オイサ-幻の福神流-』という曲を作り、2000年に発売している(作詞・作曲:上田雅利)。