大黒流は博多川東岸一帯の12ヶ町で構成している流で、豊臣秀吉の「太閤町割り」天正15年(1587年)に由来する流のひとつ。
古くは洲崎流といい、明治初期までは洲崎流と称していた。
厳密な当番町制を維持しており、毎年5月に行われる博多松囃子と共にに伝統を尊ぶ気風は強い。
「大黒流」という名称は、大黒天(大国主命)に由来している。いつ頃から「大黒流」と呼ばれるようになったかは定かでないが、博多松囃子で大黒天を奉るところから「大黒流」と呼ばれるようになったと言われている。
「太閤町割り」で生まれた縦筋の流ではあるが、所属する町々の歴史はさらに古い。
北側は元寇以降、海外貿易の中心となった息浜に当たる。禅宗寺院石城山妙楽寺(※現在は御供所町に移設)の境内の南西隅には「高楼百尺」(高さ30mぐらい?)もある灯台の役割をしていたとされる楼「呑碧楼」が作られ、接待を受ける中国の使節はその豪壮さを漢詩で称え、その壁にはそれらの漢詩が掲げられたと言われている。江戸時代には、秋月藩の蔵屋敷や福岡藩の船だまりもあり、廻船問屋が栄えた。
南側は商人町で、唐津街道沿いに富商が並び、時代が下ると博多を代表する商店街になった。その面影として須崎町の廻り止めには「須崎問屋街」というアーチが掲げられている。
現在は再開発によって、博多リバレイン、ホテルオークラ福岡、博多座が並ぶ。
紫色の地域が大黒流の流区域となっている。
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当番を担うのは十二カ町。
北から対馬小路一区(つノ一)、対馬小路二区(つノ二)、古門戸町一区(古ノ一)、古門戸町二区(古ノ二)、須崎町一区(すノ一)、須崎町二区(すノ二)、須崎町三区(すノ三)、川端町(川端)、麹屋番(麹屋)、壽通(寿通)、下新川端町(下新)、川端中央街(川中)。
当番町の順番は輪番制。以下の順番に沿って流の世話を行っている。
(※2024年の当番町・麹屋を先頭にして表記し順に並べるものとする)
昭和41年(1966年)、町界が背割り方式からブロック方式に改められたため、須崎町3町(一区、二区、三区)、対馬小路1町、古門戸町2町(一区、二区)、下川端町4町(川端町、麹屋町、寿通、下新川端町)、上川端町1町(川端中央街)の11町体制に。
昭和61年(1986年)の町名町界改変の際に、旧倉所町浜側が対馬小路二区として復帰したことで12町体制となった。このとき、従来の対馬小路は対馬小路一区とされた。
なお、昭和40年以前は16ヶ町で構成されており、その時代の構成町は、上鰯町(上い)、下鰮町(下い)、上洲崎町(上す)、下洲崎町(下す)、上対馬小路(上つ)、中対馬小路(中つ)、下対馬小路(下つ)、下対馬小路大下(大下)、古門戸町(古門戸)、妙楽寺町(妙楽寺)、倉所町(倉所)、川端町(川端)、麹屋町(麹屋)、寿通(寿通)、下新川端町(下新)、東下新川端町(東下新)の16町。
(なお、戦後妙楽寺町と一体となった妙楽寺新町、同じく戦後住居軒数の大幅な減少のため町内を持たなかった橋口町、掛町は、昭和41年(1966年)の町界町名整理まで存在していたが、その後単独参加は行っていない。)
貝原益軒の「筑前國賊風土記」の元禄3年(1690年)の項には、「洲崎流」の構成町はは18ヶ町あると記されている。
各町それぞれに個性がありしきたりも厳しいので、当番町は緊張した一年を送ることになるという。
元禄3年の「筑前國賊風土記」に登場する所からも、伝統があり古来からのしきたりが色濃く残っている。古来の伝統に則って若手が夜中に提灯を下げて町総代宅などを走って訪問し参加を乞う「もーろーろー」や、朝山笠で町総代が単衣の帷子姿にわらじ履きするなど、古式ゆかしい町人文化の継承を感じさせる。
大黒流が使う道具をよく見てみると、『黒』の字の一番下の足部分の点が4つじゃなく、3つになっている。
このように、大黒流は昔から『黒』の漢字は点々が3つの漢字しか使われていない。この点々3つの『黒』の漢字は、常用漢字にも旧字体、異字体にもないオリジナルの漢字である。
1987年に舁き棒を新調した際の新聞記事によると、古老曰く「うちではずっと前から”黒”ば使うとります。古い舁き棒の彫りも大”黒”流やったし、幕や文書の文字も全部”黒”です。」「はっきりは分かまっせんばってん、4個は”死”に通じて縁起の悪かっしょ。それで、一つ減らして奇数にしたとじゃなかかと・・・」との事。
ただ、特殊過ぎる漢字のためこの記事のためにオリジナルの字が作られたようだが、この記事しか点3つの黒の文字は使われていないようだ。
また、昭和初期の新聞では黒の異字体である『黑』が使われている時期がある。
長法被や水法被はそれぞれの町ごとに異なったデザインのものを着用する。