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博多祇園山笠用語辞典 YAMAKASA DICTIONARY

山笠ナビ博多祇園山笠用語辞典山笠トリビアちゅうし/ちゅうだん/えんき

中止/中断/延期(ちゅうし/ちゅうだん/えんき)

梅雨の真っ直中に行われる博多祗園山笠は、これまで天候が理由で中止になったことは、少なくとも戦後では一度もない。どんな大雨でも、台風が近付いてきていても、山笠の行事は天候に関係なく、決まった日に決まった行事が執り行われる。
よく山笠ナビに「今日は大雨が降ってるんですが、山笠は行われるんですか?」というお問い合わせが沢山やってくるのだが、「もちろんやりますよ」という回答しているのは意外と知られていない。

但し、過去に台風接近のため山小屋を予定より早めに撤去した例はあり、近年では2014年に大型で強い台風8号の接近を警戒した中洲流や福岡ドームが7月9日に山を解いて山小屋を解体した事はある。

明治31年(1898年)の中止騒動

ただ、一時的な中止はなく、開催事態中止にする動きが一度起こっている。

明治31年(1898年)、当時の曽我部福岡県知事が博多山笠の中止を提議し、博多は大騒ぎとなった。
当時舁き山は飾り山のように背が高くて電線を切る事が多かったのと、当時の衣装は締め込み一丁だったため公序良俗に反しているという点がその理由。
博多の人々は九州日報の古島一雄主筆に助力を要請。自らも県庁、市役所に押しかけ、結局は小島主筆の仲裁で存続が決まった。
一方で、存続派も譲歩として、舁くための背の低い『舁き山』と据えて見物する背の高い『飾り山』の分離を行うようになり、また、締め込み一丁の上に水法被を着用するようになった。

昭和28年(1953年)の水害による行事一部自粛

昭和28年6月25日夜から降り出した雨は、北部を中心に九州一帯で降り続き、29日までで九州・山口での被害は死者678人、行方不明505人の犠牲者を出し、家屋の損失、田畑の冠水を伴う豪雨となった。

県災害対策本部が「水害の直後であり、福岡市だけがお祭り気分に浸るのはどうかと思う。 飾り山笠はせっかく準備も終わっているので仕方ないが舁き山笠行事は自粛中止すべきだと思う」と申し入れがあり、開催是非をめぐって論議が行われ、「自粛して決行」することに決まった。これを受けて、各流からボランティアが募られ、水法被を着て井堰の復旧作業に従事した。

この「自粛して開催」の方針によって、同年の山笠行事は10日夕にお汐井とり、11日の朝山、12日追い山ならし、15日追い山だけとなり、直会も自粛された。

山笠の「中断」「延期」の歴史

博多祇園山笠は何度も中止・中断・延期を経験しており、近代期に入っては3度中断ししている。

明治6年(1873年)~明治15年(1882年)※10年間

旧来の祭りや慣習は弊害あっても一利無し、との理由で、近代化を推し進める明治政府の指示で県が禁止令を出した事が原因。
明治8年(1875年)に一度だけ急に山笠が許可された事があるが、許可が出たのが6月13日午後5時辺り(※旧暦)。あまりにも急な許可のため飾り物を作る時間が無く、浴衣で作った「ゆかた山」で間に合わせた・・・と記録が残っている。

昭和20年(1945年)~昭和22年(1947年)※3年間

第二次世界大戦の最終年となる昭和20年(1945年)6月19日。マリアナ基地を発進したB28 221機が博多の町を襲撃。夜中の23時過ぎから翌20日1時頃まで2時間に渡って爆撃を行い、博多の町は焦土と化す。俗に言う『福岡大空襲』である。死者は902人、負傷者1708人。行方不明244人。最も被害が最も大きかったのは、奈良屋、冷泉、大浜校区。これに福岡市の大名、簀子校区を加えると、これらの地域だけで死傷者の9割を占めたという。

戦時中でも山笠を続け、この年も山笠斎行の話を進めていた博多の人たちだったが、この焦土の中で祭りどころではない。人々は生きるのに精一杯で、山笠もついに中断せざるを得なかった。

終戦を迎えても、日々の生活を守るだけで一杯で山笠は中止となる。しかし、奈良屋校区に建てられた「復興住宅組合」が、昭和21年5月に「第一次博多復興祭」を主催。「松ばやし」と「どんたく行列」を再開し、人形の代わりに絵を載せた子供山笠も登場させた事で、博多の人達に元気を与え復興への足掛かりを作った。

翌1947年(昭和22年)も山笠は中止となったが子供山笠は行われ、西浜町と恵比須町に子供山笠2本が作られた。

本格的な山笠の再開は昭和23年(1948年)から。追い山笠、追い山笠馴らしは櫛田入りだけであったが、7月1日の当番町お汐井取りも行われ、復興山笠はここから始まった。なお、大黒流内に本格的な飾り山笠が建設され大盛況に。この飾り山笠がきっかけとなって、流で維持される「舁き山笠」と、商店街などが建てる 「飾り山笠」 とに完全に分離するようになった。

令和2年(2020年)~令和3年(2021年)※2年間

我々によっては、新型コロナウイルス(COVID-19)パンデミックによって山笠行事が「延期」になった事は、記憶に新しいだろう。

2019年末から世界中に拡大した新型コロナウイルスによる影響はとても甚大で、2019年末に中国の武漢市で第1例目の感染者が報告されてから、わずか数カ月ほどの間にパンデミックと言われる世界的な流行となった。
2020年に入ると国内外で一気に拡大を始める。2月豪華客船ダイヤモンドプリンセス号での集団感染、そして国内初の感染者が確認。3月にはタレント志村けん氏が罹患して亡くなった。東京五輪も一年延期が決定。4月には緊急事態宣言が発令される。博多では5月の博多松囃子、どんたくが中止となり、山笠はどうなるのか?と先行きが見えず不安の中、博多祇園山笠振興会は感染拡大予防を主眼に置いて断腸の思いで2020年度の開催を「延期」と決定。これにより山笠行事はすべて中止、飾り山も櫛田神社の飾り山以外は奉納しないという事となり、戦後初の山笠のない夏を博多は迎えた。

翌2021年も感染状況は改善せず、改善どころかオミクロン株の登場により感染が拡大。感染者が減らない状況を鑑み、今年こそはと山笠の開催に細心の注意と苦慮を払って行ってきた博多祇園山笠振興会は最終的に、舁き山行事を「再延期」する事を決定。2年連続山笠がない夏を博多は迎える事となった。ただし、2020年は取りやめた飾り山の奉納は行われ、わずかながら夏の風を感じることができたのは救いであった。

2022年はオミクロン株の脅威に怯える一方で、ワクチン接種も進んだことでピークアウトを迎え、4月20日の総会で振興会は舁き山笠行事開催を宣言。感染症拡大予防ガイドラインを徹底しながら、何とか無事に7月15日の追い山笠を斎行する事が出来た。

この新型コロナウイルスと対峙した博多祇園山笠の2年間の詳しい出来事については、博多祇園山笠振興会著『博多祇園山笠振興会七十年史』の特集「コロナ 闘いの軌跡」に記されているので、福岡市総合図書館や福岡県立図書館にてご一読いただきたい。

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