「芦別健夏山笠」は、北海道芦別市で毎年7月第3土曜日・日曜日に行われる「芦別健夏まつり」において土曜日夕方より行われる博多祇園山笠を模した山笠行事。博多祇園山笠振興会から『北の山笠』として唯一公認を受けている山笠である。
九州北部に見られる博多の風俗やしきたりを模範とした文化の伝播現象(ハカタウツシ)が確認できる最北の山笠となるが、この芦別の山笠が他の地域と違うのは昭和後期に、しかも”テレビ”で放送された博多の山笠を真似て伝播したという点である。デジタルを介して文化の伝播が行われたという現象自体が、民俗学的には異例の現象と見られており、新しい形の文化の伝播の形として注目されている。芦別の山笠を研究調査した国立歴史民俗博物館研究報告の『「ウツス」ということ-北海道芦別健夏山笠の博多祇園山笠受容の過程-』(福間裕爾氏著)では、この現象を伝承ならぬ『電承』と名付けられている。
芦別市は、北海道中部(道央地方)に位置する広大な市域を擁した地域である。
1893年(明治26)に開拓が始まり、1897年(明治30)より石炭が掘りはじめられ、1947年(昭和22)には人口も最高7万5千人余りに達するなど「炭鉱のまち芦別」を築き上げた。しかし昭和30年代に入ると、石油へのエネルギー転換により多くの炭鉱が閉山していく。(※最後の炭鉱となった三井芦別鉱業が1992年(平成4)に閉山)。
1984年(昭和59)7月23日(月)20時よりNHK特集で「熱走!博多山笠」が放送される(博多祇園山笠が全国放送で特集されたのはこの番組が初めて)。
ドキュメンタリーでは博多の迫力ある山笠の様子と、祭で結束する町の様子が伝えられた。それを視聴して感動した青井愼介氏(当時、芦別市中央区町内会文化部長)が「この熱気を芦別でも」との思いを抱き、仲間にも番組を録画したビデオを見せ、翌1985年、健夏まつりの「まとい踊り」に出す山車を山笠へと変更し、山笠を祭に取り入れることになった。
しかし山笠を作ろうにも、手元にある山笠の資料は青井氏が録画したビデオ1本のみ。それでもビデオを元に、見よう見まねで山笠の製作を開始する。木を組み上げる技術が無かったため、本来木組みして制作する山笠台は、鉄骨を溶接して製作。舁き棒は、知り合いのべニア板加工会社から譲ってもらったベニヤの剥き芯を使用。この剥き芯が太かっため、5本しか乗せれなかった。山笠飾りは芦別高校の美術部に依頼して絵を描いてもらった。祭りの衣装は、白足袋、青い法被、そして水が掛かると透けるほどの薄い締め込みで揃えられた。後年の回顧録では『山笠の重さよりも透け透けの締め込みが怖かった』という。
祭り当日、鉄骨で作られた山笠台に6人が台上がり。しかもバッテリーとビールケースを積んでいた。そのため、山笠は激重すぎて持ち上がらず僅か5メートルしか進めなかったため、ビールケースとバッテリー、そして青井氏一人のみを残して台上がり5人も降りて、何とか山舁きが出来たという。
沿道の人達は、初めて見る神輿、初めて見る出で立ち、初めて聞く掛け声。パレードコースの短い距離ながら、大変重い山笠を男達が肩から足の裏から血を流しながら力強く”担ぐ”勇壮な姿に、沿道の観客は大喝采。こうして、1985年(昭和60)、芦別健夏山笠が誕生した。なおこの段階では博多とは全く無関係である。
1986年(昭和61)からは山笠人形も導入され、発泡スチロールで作られた「スーパーマリオ」や「大黒天」といった人形が登場。山笠台も上記のビデオからさらに研究・推測して作られた木製の山笠台に作り替えられ、博多の山笠の雰囲気に近くなっていく。
1987年には各団体による「流」が複数創設され、流毎の山笠が街を駆ける形に発展。1988年には祭り名を「健夏山笠」に改称した。
1989年(平成元)、芦別健夏山笠振興会が設立され、山笠の勉強のために博多の山笠に派遣参加が行われるようになるなど、博多の山笠のローカライズがより進められる。1990年には行事が整備され、今まで短距離だった追い山は1.4キロの距離に延長された。
1991年には博多からも技術指導のため、大黒流の下新川端から春口栄治氏と吉井敬一郎氏が芦別の追い山笠に参加。芦別振興会本部は”本物の山笠人形を乗せたい”という気持ちから、青井氏が博多人形師である亀田均人形師の工房を訪れ快諾を得、山笠人形3体の制作を依頼した。
1992年(平成4)、亀田人形師が芦別へ出向き下見を行った際、急遽山笠講演会を行ってもらったのが、同行取材を行っていた福岡のNHKがこの模様を全国ニュースとして放映した。
・・・が、「伝統ある山笠が北海道に出たのはなぜだ?」と、この放映を機に、博多祇園山笠振興会が初めて”芦別山笠”の存在を知ることになる。勿論大問題となり、急遽、芦別健夏山笠振興会の青井会長と横市副会長が博多に説明に赴き、櫛田神社で博多祇園山笠振興会との顔合わせを行った。顔合わせにて、当時の博多祇園山笠振興会会長井上雅實氏が「芦別のことは前会長の樋口氏から聞いています。手一本入れます。」との言葉により、芦別健夏山笠は博多に認められた山笠となった。
1993年(平成5)は、飾り山笠を初めて建設。東京以北で初めて建設された飾り山笠に連日多くの見物客が訪れた。青井会長は飾り山笠の前に置かれたベンチに腰をかけ「芦別健夏山笠もついにここまできたか」と、夜遅くまでしみじみと語り合ったという。
以降、毎年博多へ訪問団の派遣を行い博多祇園山笠振興会との交流も深め、芦別山笠はさらに本格的な博多祇園山笠に近い形式に整備されていく。2007年(平成19)には初めて山留から清道旗を回る「清道入り」が導入された。
芦別健夏山笠振興会は発足から10年を迎えた1997年(平成9)、博多祇園山笠の集団山笠見せで林政志芦別市長が台上がりを務めた事で、博多と芦別の交流がさらに深まった。芦別健夏山笠振興会創立30周年を迎えた2018年には、大西俊夫会長が集団山笠見せで台上がりを務めた。
2020年(令和2)に世界を襲った新型コロナウイルスまん延防止のため、山笠行事は休止。コロナ禍の様子を見ながら山笠の建設や若松取り行事等は行うも山舁き行事は休止を続け、4年間の休止期間を経て2023年に山舁き行事が復活した。
2025年現在、芦別山笠の流れは四流で構成されている。芦別山笠が始まった1984年は流の概念はなく、翌年は「一番流」「二番流」という形で流を構成していたが、1987年より各団体による流が複数創設された。六流あった時代があったが人口減少や参加人数の減少などもあり現在は四流となっており、行事によっては一つの流が分散して他の流に加入して山笠行事を行っている。
各流の実働参加者は約15~20名程度(※市流は170名程度)。毎年ボランティアや山笠に参加したい人などを募っている。近年では道内の他地域の祭りと連携。祭りの際にはお互い人員を派遣するなど、新しい挑戦を行っている流もある。
当番町制度はない。その代わりに、四流が輪番で「当番流」を務めており、当番流がその年の山笠行事の世話を行っている。
各流に山笠飾りは決まっており、毎年同じ人形を飾る形となっている。(博多と違って飾りは毎年作り変えない)
主に芦別駅前近辺(栄町町内会)から構成。実働参加者は17名程度。
追い山の際は、空知森林管理署、芦別高校バスケットボール部、同時期に芦別で合宿を行っている道内の高校ラグビー部、市流の二・三組などが参加する。
山笠飾りは「源義経」。
栄流の当番法被です。
— 📷広報部長@緑幸流 (@KouhouRyokkou) June 14, 2024
栄流の当番法被は、ご覧の通り、流の名前である「栄」という漢字を象形化して配置したデザインとなっています。 pic.twitter.com/zPfd1VspZF
あかつき町・渓水町・中央団地など6町内会で構成。元々は宮元流(宮元連で構成)だったが、平成4年に山笠人形の抽選で「大黒天」の人形を引いたのを機に北大黒流に改称。実働参加者は10名程度。
追い山の際は、滝川駐屯地の自衛隊隊員や市流二組などが参加する。
山笠飾りは「大黒天」。
今回は北大黒流の当番法被です。
— 📷広報部長@緑幸流 (@KouhouRyokkou) June 13, 2024
北大黒流の当番法被は、大黒天の象徴である米俵をモチーフとしたデザインとなっています。 pic.twitter.com/7YW9pVBGyJ
主に緑町・幸町町内会で構成。当初(1989年)は緑幸流と称していたが、1994年より現在の読みに改称。2015年より解散した中央流・北流が合流。実働参加者は17名程度。一時期、参加者人数が少ない時期があったようで、その人数で山笠を舁かないといけなかった事から「地獄山」「奴隷舁き」と異名を付けていたこともあるらしい。
SNSでの情報発信に力を入れていおり、山笠参加希望者に広く門戸を開いている。
山笠飾りは「弁財天」。締め込みの色は緑色。
緑幸流の当番法被は、発足当時の構成町であった緑町の「ミ」と幸町の「サ」を連続して配置したデザインとなっております。
— 📷広報部長@緑幸流 (@KouhouRyokkou) June 9, 2024
近年、緑幸流常連メンバーの水法被もこれと同じデザインを使用しております。
なお、現在の緑幸流は緑町・幸町の他、中央町と北日本自動車大学校も構成町となっています。 pic.twitter.com/Oeju12zbCd
主に芦別市役所職員、消防署職員で構成。平成27年に解散した北流と中央流の参加者が加わる。芦別山笠の四流の中で、もっとも実働参加者が多く現在170名が参加する。大人数であるため、一組~四組に分けられている。人数が多いため、流内に「当番組」制を敷いており、当番組がその年の市流の世話を行う。
元々は市役所流だったが、平成4年に市流に改称した。
追い山の日は、各組ごとに分かれて各流に分散、三流の山舁きに参加するが、追い山ならしでは市流として単独参加。三流合同流と山舁きを競う。
今回は市流の当番法被となります。
— 📷広報部長@緑幸流 (@KouhouRyokkou) June 16, 2024
市流の当番法被は、市役所が母体となっていることから「市」を用いてデザインされています。
※「三十年史 芦別健夏山笠」より引用 pic.twitter.com/XAOy93iXnd
なお、過去存在した流は以下の通り。
芦辺健夏山笠の追い山は毎年7月第3土曜日の夕刻に行われており、その追い山笠を基準に各行事が行われる。
芦別市は道央地方という事で海から遠く離れている場所であるため、行事の内容は博多と多少異なる箇所があるが、行事自体の意味合いは基本的に変わっていない。
芦別山笠の開始を告げる行事。博多祇園山笠におけるお汐井取り。芦別市内にある蘆別神社(祭神:天照大御神)を全流当番法被姿で参拝。神社に奉納したイチイ(オンコ)の枝を山笠に供えるため、神官から総代に手渡される儀式。祭の安全を祈願する。
※イチイ(アララギ)・・・北海道や東北の民家の庭先、公園、街路樹などでよく見られる針葉樹。冬になっても枯れない常緑樹で、秋になると小さな赤い実をつける。松と違って手入れしやすいらしい。北海道では「オンコ」と呼ばれる。
全4流で1本の山笠を舁く流舁き。博多祇園山笠における集団山笠見せに近い。コースはその年の当番流の地域を舁き、台上がりは芦別市長や町内会長、学校長などの地名士やゲストが務める。2024年は芦別応援大使を務める北海道芦別市出身の元・広島東洋カープの高橋慶彦氏が台上がりした。
市流とその他の3つの流(三流連合)による700mのタイムレース。
芦別山笠のフィナーレ。栄流、北大黒流、緑幸流の三流が参加(市流は他の流に分散して山を舁く)。距離は追い山ならしの2倍となる1.4kmのコース(当初は2.1kmだった)。
廻り止めに全流が到達したらタイム発表が行われ、餅撒きが行われる(平成元年から開始)。
追い山の距離は1.4km。芦別駅周辺を一周するコース。2024年より追い山コースが一部改訂された。
芦別山笠振興会の紋は、1989(平成元)年に祇園宮の紋の周りに、芦別で御神木としている黄金水松を配した「五つ松木瓜」に指定されている。
黄金水松は「祖霊の樹木として健夏山笠を奉納し、無病息災を祈願する物」と位置づけている。
【芦別健夏山笠クイズ①】
— 📷広報部長@緑幸流 (@KouhouRyokkou) August 21, 2024
不定期にクイズを出します。
第1回ではありますが、極めて難易度の高い問題です。
こちらの画像は、芦別健夏山笠振興会の紋ですが、この紋の名前は何でしょうか?
漢字表記+読み方を答えてください。
8月末まで解答ください。 pic.twitter.com/CQInRTXKCe
黄金水松は芦別駅から北に車で約30分ほど走った山の中の「黄金水松公園」にあるイチイの巨樹で、推定樹齢1,700年、樹高21m、幹周6.2mもある。古くから上川地方のアイヌたちが通行する際の目印にしたり、猟の無事や無病息災を祈る御神木で、博多の櫛田神社の銀杏の樹のような存在である。
芦別の山笠も、飾りは表のみだが飾り山笠を建てて奉納している。
芦別の飾り山笠は、7月上旬に建設されたのち御神入れを行う。当初はJR芦別駅の横に建てられていたが、駅周辺の再開発により2019年より駅前通正面に場所を移された。原罪の所、約5年毎に作り替えられており、飾り付けは飾りを製作した博多人形師が来芦して飾り付けを行っている。
飾り山の建設は、芦別市開基100年及び芦別健夏山笠振興会創設5周年となった1993年(平成5)より始まった。JR芦別駅横に建てられ、亀田人形師が飾り付けのため来芦。「もう少し駅側へ、頭をもっと交番側へ」という符丁を使って飾り付けを行った。東京以北で初めて建設された飾り山笠には連日多くの見物客が訪れ、初代振興会会長の青井氏は飾り山笠の前に置かれたベンチに腰をかけ「芦別健夏山笠もついにここまできたか」と、夜遅くまでしみじみと語り合ったという。
1993年(平成5) | 「五条大橋臣仕誓」(人形師:亀田均) |
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1996年(平成8) | 「秀吉賤ヶ岳の誉」(人形師:亀田均) |
1998年(平成10) | 「うらしまたろう」(人形師:亀田均) |
2003年(平成15) | 「武蔵剣豪誉」(人形師:亀田均) |
2008年(平成20) | 「美哉月光冴星乃降里」(人形師:亀田均) 「竹取物語」を題材にした飾り山笠 |
2013年(平成25) | 「福徳円満誉」(人形師:亀田均) |