櫛田神社前の南北の通り・土居通りの両端の街々で構成された伝統の流。
第二次世界大戦での戦禍拡大により一旦活動を休止したが、戦後復興後の昭和26年(1951年)に復活した。オレンジ色の地域が土居流の流区域となっている。
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『筑前國續風土記』(貝原益軒著:宝永6年(1709年))によると、当時は十三カ町の名前が挙がっているが、現在は南から上新川端町、大乗寺前町、上土居町、中土居町、下土居町、川口町、片土居町、行町、濱小路、西方寺前町の十カ町で構成している。(※現在、上土居町は活動を休止している。)
古くは一ヶ町当番制で行っていたが、昭和42年(1967年)土居流保存会を経て流が復帰したのを機に、町を3ブロックに分けたブロック当番制(「上新川端町」、「中組」(大乗寺前町、神土居町、中土居町、下土居町、片土居町、川口町)、「浜三ヶ町」(行町、濱小路、西方寺前町))を採用し、3年に一回当番が回ってきていた。
この3ブロック制は2001年(平成13年)まで続けられ、2002年より「大乗寺前町・下土居町」「中土居町」「西方寺前町」「上新川端町」「行町」「濱小路」「片土居町・川口町」の五カ町と二ブロックで当番を行う体制に変更。7年に一度世話当番の務めが回ってくる仕組みとなった。
2025年(令和7年)より一カ町当番制の体制に変更される。
当番町の順番は輪番制。以下の順番に沿って流の世話を行っている。
(※2025年より一カ町当番制に移行、順番は現在調整中)
紺色を基調としており、衣装は町ごとに独自。自主独立の気風が漂い、日本の伝統美を伝えてくれる。
各町それぞれの法被を身につけて参加する事から分かるように、伝統を重んじ、長年の慣習を大事にする流である。
1962年(昭和37年)より福岡市の要請で「集団山見せ」が開始したが、土居流だけは『集団山見せは古式に則った行事ではない』と参加を辞退している。
1967年(昭和42年)より参加するようになったが、1977年(昭和52年)には『山笠はあくまでも櫛田神社への奉納神事であるべきで観光行事ではない』というこれまでの姿勢を貫いて再び不参加を決定した。(※不参加の代わりに当時集団山笠見せに参加していた上川端通の手伝いに参加、その後昭和58年より集団山笠見せへの参加を再開する)
また、流の決定は十カ町が全て了承しないと決定としない、という習わしがあるように、各町内、流内は強い結束で結ばれている。
その結束を表すのが「朝山笠」(7月11日)終了後の直会にて行われる「ねじ切り」行事で、向かい合わせの男達がちくわの両端を握り、息を合わせてひねり切る。これは一つの食べ物を二人で分かち合う事で団結心を養うとされている。少なくとも明治の初め頃から続いている行事で、「家にある簡単なもので山笠期間中の最大の祝い事の日の打ち上げをやるという考え方で、祭りが派手にならないようにとの気持ちも込められて行れている」という。
昭和40年(1965年)、福岡市の町界町名整理事業が引き金となって土居流が存亡の危機に立たされた。その背景は、町名整理で旧町名が全て消滅、「土居町」が消えることに対する不満で、最後の最後まで混迷を極めた。
4月下旬、土居流の各町代表がが集まって山笠建設について話し合った際、一部から「10月からは町名が変わり『土居町』はなくなるのだから土居流の意義が薄れる」として流のを解散についての意見が出された。話し合いの結果、「山笠は氏子の奉納行事であり、十ヵ町が一致協力してこそ意義がある。足並みがそろわぬ山笠なら思い切って解散した方がいい」と流の正式解散を決めた。
これに対して土居流役員の若手グループは「将来の町名変更を理由に流の解散を決めることは許されない。今年で最後なら、それだけ有終の美を飾るよう努力するのが筋」と反発。5月17日には役員決起大会を開き、町内会長らに「解散を取りやめて欲しい」と要望したが、「正式に決定したものを覆すわけにはいかない」と却下された。(なお、この辺りのやり取りについては、福岡市総合図書館所蔵の「土居流記録簿」の資料に詳しく残っており、若手グループの悲痛な訴えが心に来るものがある。)
解散が決定事項なり山笠が迫る中、土居流の有志は6月中旬に「土居流保存会」を結成。22日の博多祇園山笠振興会総会に正式に参加を申し入れた。同年の山笠の順番がすでに決まっていたため「十四番」に付け出す形ではあったが、同振興会は土居流保存会の参加を了承した。
保存会での参加を2年行った後、1967年(昭和42年)十ヵ町で正式な流を結成、山笠行事に参加すると表明。「土居流」は無事山笠に復帰した。