川上音二郎は博多出身の舞台人です。時事を風刺した「オッペケペー節」で一世を風靡し、彼が始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した事から、「新劇の祖」とも呼ばれています。
芸事に人生を捧げ芸事に生きた彼の波瀾万丈の人生を送った彼は多くの人に愛されており、特に芸事が好きな博多では博多祇園山笠の飾り山に何度も登場するほど今もなお人気のある人物でもあります。博多にはこの川上音二郎に由縁のある場所が多々ありますのでご案内しましょう。
その場所は現在は石村萬盛堂は明治38年に創業しましたが、操業を開始した建物は川上音二郎の実家であった長屋でした。福岡大空襲によってその家屋は失われましたが、その面影を残したまま再建され、今もなお石村萬盛堂本店にその姿を見ることが出来ます。
櫛田神社には、彼が上京後、生まれ所在の土地家屋を櫛田神社に寄進した記念に立てられた寄進碑があります。意図はしていないのでしょうが、その寄進碑の前に山笠小便小僧が立っているところに、何か音二郎らしさを感じます。
音二郎は1911年(明治44年)大阪の舞台で倒れ死去。「若い役者が上京するのを見ていたいので汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、博多駅(当時は祇園町辺りにありました)が近くにあった承天寺に葬られました。今も承天寺の墓地に、その墓碑は今もなお立派に建っています。
芸事が好きなところはまさに博多っ子。芸事を追いかけて、音二郎は波瀾万丈な人生を送ります。
14歳で故郷の博多を飛び出し、寺の居候として生活するも、そこで出会った慶應義塾の創設者、福沢諭吉の書生となりますが、裕福な学生の門限破りを手伝うなどして、もらった謝礼を貯め、落語や講談に頻繁に通って芸事に傾倒していきます。
その後、慶應義塾を去った後、彼は自由民権運動にのめり込みます。警察から逮捕されること180回以上。逮捕されずに自分の主張を世間へ訴えようと、彼は”芸”を利用することを思いつきます。それが一世風靡する「オッペケペー節」です。
立て続けに壮士芝居をヒットさせ人気絶頂時になるも、衆議院に出馬して敢えなく落選。これが原因で落ち目となり、最終的には劇団を手放す事になります。
窮地に立った音二郎は、ここで何と当時では考えられない海外公演に打って出ます。もちろん英語が喋れるわけではありません。しかし、ボストンで当時評判だったシェークスピアの『ヴェニスの商人』を音二郎が一夜漬けで日本風にアレンジ。相手が外国人だから分からないということで、適当にしゃべって仕草だけ合わせた舞台がなぜか大反響を呼び、この後、欧米をまわった起死回生の巡業ツアーでは各地で注目を集め大ヒットさせます。
特に1900年(明治33年)のパリ万国博覧会では、音二郎の妻であり主演女優でもあった川上貞、通称貞奴のエキゾチックな演舞をロダンやピカソも絶賛し、ヨーロッパに「貞奴旋風」を巻き起こしました。
その後、翻訳劇を積極的に上演。東京明治座でシェークスピアの「オセロ」を日本初演します。この舞台は貞奴が日本の女優第一号として舞台に立った事で、近代演劇史上重要な出来事でもあります。
このように、シェークスピア劇を我が国に紹介し、児童劇を開始するなど演劇史に残した功績は誠に大きく、また、彼はオッペケペー節を明治33年(1900年)にレコードに録音していますが、これは、日本人初のレコードへの吹き込みと言われています。
とにもかくにも舞台と芸事の世界を自由奔放に飛び回った川上音二郎。最後は、自分が設立した帝国座の舞台に布団を敷いて舞台の上で亡くなりました。芸に生き、芸に生涯をささげた男らしい最期でした。
2011年には川上音二郎は没後100年・川上貞奴は生誕140周年を迎え、今もなお二人の功績は称えられています。