正定寺は、博多区中呉服町にある浄土宗のお寺で、明応年間(1492年-1501年)に開基されました。このお寺には、「魚問屋「西浜屋」の西頭徳蔵の墓」「名島城の切腹の間」と「福岡大空襲時の焼夷弾」の破片が残されています。(※檀家の方しか入ることができません)
この西頭徳蔵とは博多の春のお祭り「博多どんたく」の源流である博多松囃子の「通りもん」の創始者と言われる名物男です。
横型の大きな石の墓に刻まれた赤文字の「へ丁八」という文字は、聖福寺の人気のあった仙涯和尚の直筆の文字。仙涯和尚から「お前に八丁兵衛(※通り名)は勿体ない、八丁へ(屁)で十分だ」という言葉をすっかり気に入り、墓石に彫り込んで盛大な生前葬を行った面白い人だったそうです。
名島城は、筑前国名島(現:福岡市東区名島)にあった城で、小早川秀秋が治めていた城でした。しかし関ヶ原陣の戦功により黒田長政が筑前国主となりこの城をもらい受けたのですが、城地が狭く城下町が作れないため福崎に福岡城を築きます。
福岡城の築城のために名島城を壊して建築資材としたため、名島城は廃城となりました。
この時、名島城にあった書院はこの正定寺に移されます。実はこの書院こそが名島城の切腹の間で、天井の桟が床の間に直角になっている「切腹の間造り」となっており、柱は血が飛んでもシミが付かないよう黒く塗ってあり、すぐふき取れるように皮付きだったそうです。
現在は客室として使われており、今は天井などは葺き替えられていますがその昔は飛び散った血が付いていた、との事です。
福岡大空襲は、第二次世界大戦中の1945年6月19日から翌20日までアメリカ軍により行われた福岡市の市街地を標的にした空襲で、これにより1,000人以上が死亡・行方不明となりました。
アメリカ軍は博多や天神を中心に焼夷弾による爆撃を行い、東西地区、中央地区が焦土と化しました。特に博多地区の奈良屋、冷泉、大浜校区など当時の中心街は甚大な被害を受けました。
その焼夷弾のひとつが正定寺を直撃。寺の建物が燃え落ちる所を、和尚さんや小僧さん達が寺の池の水を使って必死の消火作業を行い消し止めたのです。しかし、その中で一人の小僧さんが犠牲になりました。
今でもその焼夷弾の大きな破片が、鯉が泳ぐ池の脇に置いてあり、また廊下の梁にもその時の火災で焦げた後が残っています。
福岡大空襲の歴史は、正定寺近くにある博多小学校にはある戦争資料を収集した平和記念室にてその悲惨な歴史を今もなお伝えています。
この戦災は博多祇園山笠の歴史にも大きな打撃を与えました。戦災により各流の山笠台、法被等が焼失したため、同年の博多祇園山笠は中止に。翌年からベニヤ板に絵を描いた子供山笠が復活したものの、山笠の本格的な再開は、3年後の1948年までかかりました。
住所 | 福岡市博多区中呉服町10-1 |
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