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特集『芦別健夏山笠のローカライズ -いかにしてイベントは奉納神事になったのか- 』

『ハカタウツシ』。博多の風俗やしきたりを模範とした文化の伝播現象だ。
博多は古来より商都として栄えてきた。その華やかな都市の文化は周辺の町や村に影響を与え、博多を模範とした祭りやしきたりを生み出しており、北部九州ではこの現象を『ハカタウツシ』と呼ばれており、この現象は『ハカタナライ』や『ハカタマネビ』という言い方も確認されている。

文化の伝播で最も最たるのは京都の祇園祭だ。日本各地に伝播しその土地の文化と融合しながら独自の祭り形態に変容、現在「祇園祭」と名付く祭りは全国で35個以上存在する。博多祇園山笠もその一つだ。京都から博多へ、そして博多から九州北部の各地方へ。ハカタウツシと見られる祭は、九州北部一帯に100ヶ所以上も分布していると言われる。
例えば、佐賀県唐津市浜崎の「浜崎祇園山笠」は、1753年(宝暦3年)に浜崎の網元であった中村屋久兵衛が商用で京都に行った帰途で博多祇園山笠の賑いを見物して感動したことから、大漁、商売繁盛、五穀豊穣を祈願する3台の山笠を、私費を投じて奉納したのが始まりとされている、当初は博多の飾りを借り受けて山笠を作っていたが、時を経るにつれて次第に浜崎独自の形態に変化。現在は高さ約15mもある山笠が、お囃子とともに町内を巡っている。
他にも福岡県福津市の「津屋崎祇園山笠」、大分県日田市の「日田祇園祭」、福岡県直方市の「直方山笠」などもハカタウツシの祭りと言われている。
これらのハカタウツシとして記録に残っている祭りは、主に1600年代から1700年代の江戸期に起源を持っており事が多い。

だが、そのハカタウツシの祭りの中で特異な光を放っている祭りがある。北海道芦別市で行われている「芦別健夏山笠」だ。九州北部特有の伝播現象が北海道で確認できるというだけでも異例なことだが、この芦別の山笠が他の地域と違うのは、昭和後期に始まり、しかも「テレビ」で放送された博多の山笠を真似て伝播したという点である。このマスメディアを介して文化の伝播が行われたという新しい形態の伝播形式は民俗学的にも注目されており、芦別の山笠を研究調査した福間裕爾氏は、この現象を伝承ならぬ『電承』と名付けている。

しかも、「芦別健夏山笠」は、もともと町の夏祭りの中の一つの催し物として始まったという。
私はそこに大変興味を覚えた。「イベント」が、いかにそて「奉納神事」として行われるようになったのか。
しかも、イベントを奉納神事に作り替えた”仕掛け人”がいるという。博多の山笠を芦別の山笠にローカライズ(その土地の文化に調整する作業)を行い、法被のデザインや記念誌の編纂まで全て関わったという。しかも、その方がまだ振興会として活躍されているというのだ。私はその事を聞いて震えた。「”神事”を作った人がいる!」。芦別山笠の成り立ちを知りたいと思った。
そして2026年8月、その当事者である現在の芦別健夏山笠振興会副会長で芦別商工会議所専務理事を務める関谷誠氏に、念願叶ってオンラインインタビューをさせていただく機会を得る事ができた。芦別健夏山笠はどのような流れで奉納神事になったのか、そして聞いた”芦別山笠の色んな設定はすべて関谷氏が作った”という話は果たして本当なのか。この特集は関谷氏から聞いた「祭祀の成り立ち」というプリミティブな事象の1ケースを知る話である。

健夏山笠の誕生、そして奉納神事へ

そもそも、芦別健夏山笠の始まりは、博多祇園山笠を忠実に再現しようというものではなかった。

きっかけは昭和59(1984)年に遡る。芦別市内で青井呉服店を営んでいた青井愼介氏(後の芦別健夏山笠振興会の初代会長)は、芦別市の中央区町内文化部長を務めることになった。芦別山笠の初代会長になる人・・・と言うと、町づくりに情熱を捧げていた人のように思われがちだが、周囲の仲間によれば、祭りを運営するどころかできれば参加もしたくないというタイプの人で、それまで行われていた健夏まつりの「まとい踊り」にもあまり乗り気ではない人だったらしい。そんな青井氏が中央区町内文化部長を務めることになった。実際にはなって”しまった”というべきか。

昭和59年7月23日、NHK特集で「熱走!博多山笠」が放送された。これが博多祇園山笠が初めて全国に知れわたった記念すべき放送である。
その番組を青井氏が目にした事で運命の歯車が回り始める。「こんなお祭りがいいな」と感じた青井氏は、芦別の若手経営者が集まる「実青会」で「あれ見たか」と話題にした。同じ番組を見た仲間も「見た、見た。あれすごいね」と話が盛り上がった。

青井氏の友人にNHKに勤める人がいたのも運命的であった。その友人に「あの番組のビデオを入手できないか」と相談して、「熱走!博多山笠」が録画されたビデオを手に入れた。仲間たちとそのビデオを見ながら「来年の健夏まつりの時はこれをやらないか」と話し合い、そこから「芦別で山笠をやる」計画が次第に膨らんでいった。

翌昭和60(1985)年、青井氏の旗振りのもと、その計画は実行に移されていく。

山笠の開催には様々な準備が必要だ。見たこともない祭りならなおの事である。だが、当時の芦別には山笠台の構造、山笠の舁き方など、誰も知っている人がおらず、頼りになるのは青井氏が入手したビデオのみという限られた資料だけだった。芦別の人々は、この映像をもとに手探りで山笠の準備を進めていく。

まずは祭りの主役となる「舁き山笠」だ。山笠台を作る際、博多の山笠の重さが「1トン」だという情報をもとに、メンバーの一人の弟が営む鉄工所で「鉄骨を使って」作られた。その「1トン」という数字には、飾りや舁き棒、台上がりの人達なども含んだ数字だったのだが、解釈を誤って鉄製の1トンの「山笠台」が出来上がった。その山笠台に、これもまた重いベニヤの剥き芯で作られた舁き棒が5本付けられた。人形はねぶたのような飾りで、その中に電飾を仕込みその電飾を光らせるためのバッテリーも積まれた。さらに台上がりの6人、途中で飲むビールまでも積まれた。合計すると1.5トンほどになったという。

「舁き棒は市内のベニヤ会社から譲ってもらったベニヤの剥き芯である。この芯が太くて六本並ばず、五本棒の山笠となってしまった」「上飾りは『ねぶたモドキ』である。鉄のアングルにキャラコ記事に絵を描き入れる。(絵は芦別高校美術部に依頼)中に蛍光灯を入れた。台には五本の舁き棒(直径二十数センチ)台中にはバッテリー(トラック用三台)」「(祭り当日)ただでさえ重たい鉄の山笠に、表と見送りに何人づつの台上がり。山笠台にはバッテリーと何箱もの缶ビールが積まれていた。五メートル進んだところで重さに耐えきれずに山笠は止まり、五人の台上がりとバッテリーと缶ビールを降ろした。」(「芦別健夏山笠振興会十年史」より)

また、山笠を動かすには多くの舁き手が必要だ。実青会のメンバーや中央区町内会の若者だけでは山笠は舁けないので、町内の区域にあった芦別市役所に人員の支援要請を行った。当時23歳だった関谷誠氏(現・芦別健夏山笠副会長及び芦別商工会議所専務理事)は、市役所から派遣されたサポート要員の一人として参加することになった。関谷氏自身、青井氏から直接誘われたわけではなく、市役所に来た要請を受けて参加しただけであり、山笠について知ったのもこの時が初めてだった。青井氏から「ちょっとこれを見てくれ」と件のビデオを見せられ、初めて博多祇園山笠を知ったという。「すごい熱気のあるお祭りだな」と思った一方で、激しい祭りの模様や過激に見える衣装を見て「これをやるのか」と少々気後れするところもあったという。

激重だが山笠ができた。舁き手も20数人程度だがそろった。あとは山笠を動かすだけだが、ここからがまた大変だった。

祭りの何日か前から毎晩のように集まって練習した。舁き方が分からないので、表10人、見送り10人に分かれ、舁き棒に肩を入れた。関谷氏曰く「完全に神輿状態」と言う通り、表も見送りも山笠を持ち上げた・・・が、大変重くて持ち上げるだけで苦労した。人が集まらない時には10数人ほどで山笠を持ち上げなければならなかった。走るための練習というよりも、まず山笠を持ち上げるための練習だった。

そんな山舁き方法の転機になったのも、やはり資料のビデオだった。
何度も映像を見返すうちに、「これは担いでいるんじゃなくて、引きずっているんじゃないのか」という事に気づいた。そこで実際に山笠を押してみると、それまでよりも少し楽に動かすことができた。練習を重ねるうちに、担ぎ上げるのではなく、少し持ち上げながら押して進むことが分かり、最終的に小走り程度まで速度を上げられるようになった。

こうして芦別健夏まつりの当日、パレードの山車の一つとして芦別の山笠が登場する。
初めて見る山笠、見たことのない締め込み姿の男達、聞いた事のない迫力のある掛け声、それまでのまとい踊りとは全く違う迫力ある謎の神輿の登場に、沿道の芦別市民は多いに沸いたという。

「祭の当日に用意されていた衣装は、水が掛かると透けそうな薄い締め込み。白足袋と青い法被である。最後まで締め込みを拒み、白短パンで舁いたものもいた。」「みんなを恐怖させたのは透け透けの締め込みであった」(「芦別健夏山笠振興会十年史」より)

勢水の使い方についてもビデオから学んだ。勢水にどのような意味や役目があるのか十分に理解していなかったが、映像の見よう見まねで沿道の所々でホースなどを使って水を撒いてみた。沿道の人にも水係をお願いしたら面白がって水を掛けてくれたのだが、勢水が山笠の文化を知らない町内会長に掛かってしまい怒らせてしまったという。だが、その山笠台の下にいる息の上がった舁き手達の「もっと掛けてくれ」の声から勢い水は止むことがなかった。

大盛況の中初めての芦別山笠は無事ゴールした。参加した側にも大きな達成感があり、終了後に青井氏を中心にメンバーが集まり「健夏まつり楽しくする会」が設立された。市役所から手伝いとして参加していた関谷氏も、市役所から参加した人の中から唯一”なぜか”そのメンバーに加わることになった。

「舁き手の男達は肩を青黒く腫らして血をにじませていた。白足袋の裏も全て抜け、血を流しながらの奮闘であったが、終わった後の爽快感だけが残った。もとまち公園で行われた直会では、興奮のあまり噴水に飛び込む者まで出る始末であった。」(「芦別健夏山笠振興会十年史」より)

その後、芦別の山笠は、山笠は昭和61(1986)年、昭和62(1987)年と、流の数を増やしながら規模を大きくして続けられていった。時には2台の山笠を並べて競争するような年もあった。

山笠台も、博多から取り寄せた資料の写真をもとに、人と台の大きさを比較して図面を引いた木製の山笠台が作られた。最初の山笠と比べると「本物みたいに見えた」(関谷氏談)と振り返るほど、その姿も博多の山笠に近付いて行った。

しかし、参加する流や人が増えても、芦別には山笠の舁き方を知る人はいなかった。そこで「健夏まつりを楽しくする会」から、当時24歳ほどだった関谷氏などが指導役として新しく参加する人たちのもとに派遣され、山笠のやり方を教えるようになった。

それでも、この時点では「博多の山笠に忠実な山笠をやる」という考えが明確にあったわけではない。「本物の博多の山笠を見てみたい」という気持ちはあったものの、「もっと博多の山笠に近付けたい」というような強い気持ちまではなかった。

その気持ちの大きな転機となったのは平成元年(1989年)である。

それまでの芦別の山笠では、限られた映像や資料をもとに、博多の山笠を見よう見まねで取り入れていた。「健夏まつりを楽しくする会」のメンバーの一人であった横市英夫氏(後の振興会副会長)が、取引先の井筒屋の紹介で大黒流の下新川端町元取締であった春口栄治氏と知り合い交流を行った。その交流から博多の山笠の資料を頂く中で、春口氏より「一度博多に来てみてはどうか」と話が持ちかけられた。
それを受けて、「楽しくする会」は市の観光係に博多視察の打診を行ったところ、これが了承された。博多側からも視察の了承を得て「楽しくする会」の5名が、平成元年7月9日から11日までの2泊3日の日程で博多の山笠を視察訪問することになった。関谷氏もその一人として参加した。

追い山笠当日に視察に行くと迷惑がかかるとの思いで、参加は7月9日の全流お汐井取りからの日程にした。当初は視察だけの予定だったが、春口氏の勧めで青井氏らは下新川端町から参加した。関谷氏は、吉澤健一氏(視察に参加した5人のうちの1人)の親類のいる西流冷泉三区から参加し、10日の流舁きと11日の朝山笠に参加し、11日午後に帰芦した。

初めて本物の博多祇園山笠を目の当たりにした関谷氏は、大きな衝撃を受けた。

「これは今のままではダメだ」

博多の山笠を見て感じたことが「組織をきちんとしないとダメだ」ということ、そしてもう一つが「拠り所を設けないとダメだ」ということだった。
関谷氏によれば、これを機に「厳密に博多の山笠をやろう」という思いになったという。せっかく山笠をやるのであれば、博多にほとんど近い形で行う。そのためには、まず「拠り所」「紋」「衣裳」「手拭い」を整える必要を感じていた。

しかし、博多の文化をそのまま芦別へ持ち込んだわけではない。関谷氏は博多の山笠を厳格に行いつつ、芦別の町に合った形にしないと祭りの整合性が取れないと考えていた。

帰芦後、関谷氏は博多祇園山笠振興会の三十周年記念誌を参考に会則を作り、まず組織を整えることから手掛けた。

次に「拠り所」だ。拠り所については祇園宮を勧請することも検討されたのだが、もともと市民祭りから山笠へと変わった経緯もあり、宗教色を強くすることには抵抗があったため、芦別独自の「拠り所」が模索された。

そこで、関谷氏が博多の櫛田神社にあたる「拠り所」として目を付けたのが、芦別市黄金町の小高い丘の上にある「黄金水松」だった。

黄金水松は昭和7(1932)年、宮内省帝室林野局によって保存木に指定されている由緒ある木であり、昭和37(1962)年には芦別市指定文化財に指定されている。後年の平成14(2002)年には道内の単木としては初の北海道指定文化財(天然記念物)に指定されている。

関谷氏は、当時芦別市史の編纂に携わった市役所OBを訪ね、黄金水松について話を聞いた。そこで、黄金水松は樹齢3,000年にも及び、芦別の歴史を見下ろしながら風雪に耐え、和人入植の数百年前から管内はもとより、遠くは上川方面からもアイヌがこの老樹を訪ねて崇拝する風習があった。オンコ(オンコは東北地方の呼び名で、学名はイチイ)は、アイヌ語で「ララマニ」または「タララマニ」と呼び、尊い木として神聖視されてきた。また、この木には祖霊が宿るとされ、病気になるとオンコの前で快復を祈り、災難が及ばないように祈願する樹木として崇められていた木であることを知った。

また、博多の櫛田神社には樹齢1,400年の「櫛田の銀杏」があることからも、関谷氏は黄金水松を芦別山笠の拠り所に最適であると考えた。

さらに、アイヌの人々は春、秋、冬の三季に祖霊祭を盛大に行い、死者の霊を山に送り、人里に立ち寄って病気や災いが起きないようにする儀式として定着しており、夏にこの儀式をしないのは、腐敗により酒が作れず、献酒が得られなかったためである、という話を聞く。関谷氏は「ならば夏は山笠が黄金水松に奉納して市民の無病息災を願う」とこれ以上ない設定を考え、黄金水松を芦別健夏山笠の奉納の対象と決めた。

市内には明治期に創建された蘆別神社があるが、関谷氏は神社に山笠行事に必要なお祓いの神事(若松取りや飾り山の御神入れなど)を齋行する役割を依頼した。「神社側もこのお祓い行事がどんな意味を持っているのか、平成10年の櫛田神社宮司の来芦まで分かってなったのではないか」と関谷氏は語っている。

奉納の根拠付けにもなる「紋」についても、櫛田神社の木瓜紋をそのまま使用するのではなく、芦別独自のものを制作した。
関谷氏は図書館で紋について調べる中で、徳川御三家の家紋がそれぞれ微妙に異なっていることを知った。家紋は、分家する際は本家との区別をつけるために元々の紋を踏襲しつつ新しい紋を作られた歴史がある。ならば自分で作っていいはずだと、紋の本から松のデザインをコピーして、櫛田神社の木瓜紋に切り貼りして配置してみたところ、デザインとしてまとまりがよかったことから、「松は黄金水松を表す」「5つの松は流の数を表す」というもっともらしい理由を付けて「五つ松木瓜」と名付けた芦別健夏山笠独自の紋が出来上がった。

拠り所、紋が作られると、博多の山笠行事も芦別に取り入れられる事になった。初めて導入されたのはお汐井取り、祝儀山、追い山だった。

まず、これは関谷氏が必ず入れたいと願ったのはお汐井取り行事だった。ただ、最寄りの海までは車で1時間半かかるほど遠い場所にあるため、お汐井取りをそのまま行うことは難しかった。
そこで奉納対象を黄金水松と決定した事から、黄金水松から得た松を山笠に飾るために松を取りに行く行事とすることにした。しかも博多祝い歌(祝いめでた)の冒頭の歌詞が「祝いめでたの若松様よ」という歌詞もあることから、松を取りにいく理由にもなる。そこから、祝いめでたの歌詞から拝借して行事名を「若松取り」にし、参加者を祓い清める行事が出来上がった。

祝儀山は、追い山前に舁き手の山舁き練習を行う必要があると考え、流の区域だけを走らせる目的から取り入れられた。当時の祝儀山は平日という事もあり、オリジナルメンバーで舁くなら10数人いるかどうかぐらいだったので、市役所からも手伝いが出ていたが、そんなに手伝いの人数はおらず、せいぜい合計30数名程度で舁いたという。

博多の山笠を厳格に行うのであれば、追い山行事の存在は欠かせなかった。これまではパレードの一出し物であったため、パレードの前を行く山車の進行に合わせて運行せざるを得なく、度々山舁きを止めざるを得なかった。ルートによっては200メートル走っては止まり・・・を繰り返していた。止まった先ではビールや日本酒が振舞われ、たばこ休憩なども行われてたという。しかし、追い山行事が取り入れる事になったことで、これらの休憩時間は撤廃となり、当時2.1キロのコースが設定され、芦別の町を周回するコースが設定された。

その他、関谷氏は当番法被のデザインも全て手掛けた。北大黒流は大国様の米俵を、緑幸流は頭の文字からミとサを、北流は北日本自動車工学専門学校の略称「A-tec」のAから・・・と、流の名前からインスピレーションを受けてデザインした。博多と同様に久留米絣で発注を掛けた。制作工数があまり掛からないように全流縦の筋の数を同じデザインにしたつもりだったが栄流だけなぜか少し割高の当番法被が出来上がってしまった。

「(市流の)水法被の背中の『市』の文字については、現振興会事務局長(※当時)関谷誠が筆ペンでイメージとして書いたわずか数センチの文字がそのまま拡大され、染めこまれてしまったものである。会員の中には、書家の大家が書いたものと信じている者もいるらしい。(完成品を手にして驚いた当人は数年間このことを秘密にしていた。)」(「二十年のあゆみ 芦別健夏山笠」より)

このように、博多祇園山笠の行事や仕組みを基本としながら、そのまま再現できないものについては試行錯誤しながら芦別の土地や事情に合わせた形へ置き換えていき、それまで市民祭りの一イベントだった山笠は、平成2(1990)年より「黄金水松への奉納行事」という位置づけを持って初めて齋行されるようになった。

関谷氏は、山笠行事を厳格に行うためには、そのための理由となるものが必要だったと振り返る。「ただのイベント」であれば、様々な決まり事を守る必要性は生まれにくい。そこで「奉納行事である」という位置づけを設けることで、なぜ決まり事を守らなければならないのかという事を参加者に意識してもらうようにしたという。

博多で受け継がれてきた胡瓜断ちなどのしきたりも芦別山笠に取り入れられた。博多でしきたりが変更された際には芦別でもそれに合わせるなど「博多のしきたりは極力守るようにし、できるだけ受け継いでいこう」という考えが、その後の芦別健夏山笠の基本となっていった。

9月に芦別健夏山笠振興会が設立、10月に初めての運営委員会が開催され、関谷氏が考えた「奉納行事」が承認された。

なお、芦別健夏山笠振興会の初代会長には、昭和59年にビデオを見ながら「来年の健夏まつりの時はこれをやらないか」と提案した青井愼介氏が就任した。
前述通り、周囲の人からは「町内の祭りに興味がない人」という印象だった青井氏は、山笠に傾倒し、山笠が大好きで「山のぼせ」を自認していたという。
会長としても懐が深く、関谷氏が考えた様々な改革案についても「全部任せるから」と案をすべて受け入れた。芦別健夏山笠を作り上げていく時代、毎年博多に近づいていく山笠に、青井氏長も関谷氏もやりがいを感じていたという。
この頃は、青井氏を中心とした10数人程度の飲み会が頻繁に行われており、1次会、2次会、3次会では終始山笠の話しかしなかったそうだ。山笠を通して若者と接することが大好きな人で、当時その飲み会に参加していた20代の市役所若手職員が、現在の振興会の中心役員として運営を担っており、青井氏の情熱を伝え続けている。

芦別山笠の成立の特徴① 「黄金水松とアニミズム」

ここまでの芦別健夏山笠が誕生する過程を振り返って大変興味深く感じられるのが、黄金水松を山笠の「拠り所」とし、奉納の対象として生まれた祭礼であるという事だ。

学術的に、世界各地では、巨木や巨岩、山、滝など、自然界に存在する特徴的なものに霊的な存在や力を認めて信仰の対象とする、自然物に霊的な存在を認めるという考え方は、「アニミズム(精霊信仰)」と呼ばれている。
日本においても、巨木や巨岩などの自然物は、神霊が依りつく対象「依代」つまり御神体として祀る信仰が多数残っている。有名な所では滝そのものが御神体である和歌山県の那智の滝や、樹齢2000年を超えるとも伝えられる巨大な楠を祀った静岡県熱海市の来宮神社などが有名だ。樹齢ウン千年とまではいかなくとも、近所の神社の巨木に注連縄を掛け祀っている場所など、身近な所にそのような御神木や神聖視された巨岩はある。

芦別健夏山笠と黄金水松との関係も、一見すると、このような古くから存在する自然信仰と同じような構造を持っているが、その成立過程は大きく異なる。

まず、芦別健夏山笠では、山笠が始まった当初から黄金水松を奉納対象としていたわけではない。昭和60年に山笠が始まった時点では、「奉納」などの考えは一切なく、テレビで見た博多祇園山笠を手掛かりに始めた市民祭りの一行事だった。「黄金水松に山笠を奉納し、市民の無病息災を願う」という現在の芦別健夏山笠の祭祀上の位置づけは、平成元年以降から後付けされた「設定」だ。

一方で、黄金水松にはアイヌの人々の信仰や伝承が存在している事が分かっており、祭祀上の位置づけが存在している。

ここに、芦別健夏山笠の成り立ちの特徴がある。
一般的に自然信仰が発生する場合、

“巨木への信仰 → 祭祀の成立 → 長い年月を経て祭礼として継承”

という流れを想像しやすい。
ところが芦別健夏山笠では、

“市民祭り → 山笠の導入 → 「拠り所」の必要性を認識 → 黄金水松の信仰・伝承に着目 → 奉納対象として位置づける → 長い年月を経て祭礼として継承”

という、逆方向ともいえる過程をたどっている。

極端に言ってしまえば「昭和・平成の時代に生まれたアニミズム的な祭り」とも言えるし、もしくは「現代に成立した新しい祭礼によって、古くから地域に存在した自然信仰や伝承が再発見され、新たな祭祀体系の中へ組み込まれた祭り」とも言える。
どちらの形と捉えるか難しいところだが、少なくとも芦別健夏山笠は「現代に作られた祭が、古い自然信仰と結びつき、新しい地域の伝統へと変化していく過程」を「当事者の成立時の証言とともに”祭礼の誕生と発展”を追うことができる」という貴重なケースの祭りであると見ている。

祭りがつくる『共同体』

黄金水松という「拠り所」を定め、そこへ奉納する意味を設け、自分たちの「紋」を掲げる。それらは、参加する人々が同じものを拠り所とし、同じ目的のもとで祭りを行うための象徴になった。ここに、関谷氏が「拠り所」と「紋」をまず整えようとした思いがあったのではないだろうか。

そもそも、祭りには地域の人々を結びつけ共同体意識を育む働きがある。その中心にあるのは、古くから続く祭りであれば氏神などへの信仰であり、もう一つは、一つの行事をともにつくり上げるという人々の営みである。準備をし、同じ衣裳を身につけ、同じものを担ぎ、同じ目的のために動く。共にこれらを通過する事で、人と人とのつながりや地域への帰属意識を育てていく。

こうした祭りと共同体との関係を考えると、北海道は実に興味深い土地だ。
明治以降の開拓によって、北海道には全国各地から多くの人々が移住した。そこでは、新しく生まれた集落の精神的な拠り所として神社が建てられ、移住者が故郷の神を勧請した例も少なくない。富山県からの移住者が多かった下多寄地区では、神社創建を祝うため、青年たちが故郷の富山へ戻って獅子舞の道具一式を調達し、獅子舞そのものを北海道へ持ち込んだ。それが地域で受け継がれ、現在の「風連獅子舞」につながっている。

このように、人々が集まると拠り所が作られ、それが新しい土地の文化になっていくという事例がたくさん存在している。
これは開拓時代だけの話でもない。現在でもニュータウンや新興住宅地では、『地域の結束を強める』目的で祭りや市民体育祭といったイベントが意図的に作られ機能してきている。近年企業で社内運動会が行われるのがブームとなっているが、これも「社内コミュニケーション不足を解消し、チームワークを強化する手段」が目的となっており、同じ理由といえる。

人々は繋がるために「思いを同じにし、同じ活動を行う」事を求める。出身地も職業も異なる、もともとは知らない者同士が暮らし始めた場所で、一緒に準備をし、一緒に汗を流して行事を作って運営する。それを毎年繰り返すことによって、人々の間に少しずつ共同体としてのつながりが生まれていく。

芦別の人々が博多の山笠に感じた魅力は、単に「激しい祭り」「勇壮な祭り」ということだけではなかったはずだ。多くの人が同じものを担ぎ、同じ目的に向かって動くことで生まれる、強烈な共同性。それこそが、当時の芦別の人々に「自分たちも、こんな祭りをやってみたい」と思わせたものの一つだったのではないだろうか。

なお、芦別から直線距離にして約50キロしか離れてない美瑛町には「那智・美瑛火祭」という祭りがある。昭和63(1988)年12月、十勝岳が噴火し、美瑛町では一部住民が避難を余儀なくされた。その翌年、地域を元気にするとともに山の神を慰めようと始められた。興味深いのは、その成り立ちだ。美瑛の開拓には和歌山県からの入植者が関わっていた事から、先祖の故郷である和歌山へ赴いて伝統ある「那智の火祭」を学び指導を受け、平成元(1989)年から美瑛の祭りとして始めた。現在でも人々は御神火を美瑛神社へ奉納している。

芦別も美瑛も、外の土地にあった祭りを学び自分たちの土地が持つ歴史や自然と結びつけることで「新しい奉納神事」を作り上げたのだが、それがたまたまとはいえ、近隣地域でかつ平成元年に生まれたという点は、実に興味深いところだ。

芦別山笠の成立の特徴② 「『電承』という新しい形」

そして、芦別健夏山笠の成立過程のもう一つ興味深い点が、博多の文化が芦別まで「どのように伝わったのか」という点である。
博多の風俗やしきたりを模範として周辺地域へ文化が伝わる「ハカタウツシ」は、江戸期に各地で起こっている。この「江戸期」というのがヒントのような気がしてならない。

当時は、現代のように遠方へ気軽に移動できる時代ではない。浜崎祇園山笠のように、藩外から博多を訪れた人物が山笠を実際に見て、その姿を地元へ持ち帰ったケースでは、最初に目にした山笠の記憶や限られた情報を頼りに祭りを再現することになる。
一度地元へ持ち帰られた祭りは、博多の山笠を頻繁に参照できるわけではない。そのため、最初は博多を模範としていても、その後は地域の風土や信仰、祭りを担う人々の事情などを取り込みながら、次第に独自の姿へ変化していったのではないだろうか。

一方、博多に近い筑前国内などでは事情が異なったことも考えられる。
物理的な距離が近ければ、博多を訪れて山笠を見ることも、博多から人や情報が伝わることも、遠隔地と比較すれば容易だったはずである。仮に継続的に博多の山笠を参照することができたのであれば、
「博多の山笠を見る → 地元で真似る → 再び博多を見る → 違いを修正する」
という繰り返しも可能になる。現在の舁き山笠と同じ形状のハカタウツシは、比較的博多に近い土地に多い気がするのはこのためか。

つまり地理的な距離は、文化が「伝わるか、伝わらないか」だけではなく、伝わった後も、その模範となった文化をどの程度継続して参照できるかにも影響を与えていたのではないか。そう考えると、芦別健夏山笠はさらに興味深い。
芦別は博多から遠く離れた北海道にありながら、昭和59年にはテレビによって博多祇園山笠を見ることができた。しかも青井氏は番組を録画したビデオを入手しているため、一度見て終わるのではなく、何度でも博多の山笠を見返すことができた。
実際に芦別では、舁き方が分からなければビデオを見直する中で「担いでいるのではなく、押しているのではないか」と気付き、山笠の動かし方を修正している。
江戸期の遠隔地への文化伝播を「人が博多へ行き、見たものを持ち帰る」という形だったとするなら、芦別では先に「博多の映像」がやって来た。この点は他の祭りと大きな違いがある。
そして、その映像をもとに山笠を始め、博多から資料を取り寄せながら改良を重ね、平成元年になって初めて人が博多へ向かった。そこで実際の博多祇園山笠を体験すると、今度は映像や資料だけでは分からなかった組織や祭礼としての構造を知り、「博多にほとんど近い形」を目指して再び芦別の山笠を作り直していった。

つまり芦別では、

テレビで博多の山笠を見る
→ ビデオを繰り返し見る
→ 見よう見まねで山笠を始める
→ 資料を取り寄せて改良する
→ 実際に博多を訪れる
→ 本物との違いを知る
→ 改めて博多に近付ける
→ そのまま再現できないものを芦別の土地や文化に合わせてローカライズする

という、テレビやビデオという映像メディアによって「本場」を繰り返し参照して伝播する、現代社会でしか成し得ない新しい形で生まれている。
そして、北海道という土地では博多そのままを再現できない部分については、博多から離れるための独自化ではなく、そのままでは埋められない部分を芦別の歴史や文化によって補ったことで生まれた独自の祭りになっていったものと思われる。

『北の山笠』の奉納神事はこれからも続く

芦別で山笠がはじまってから40年目の節目となった2025年、芦別健夏山笠を一から作り上げてきた一人である関谷氏は、参加者に「芦別健夏山笠の意義とは何か」と改めて説明した。その説明の中で、芦別健夏山笠の奉納神事としての位置づけと、これからの継承について記されているので、その全文を紹介したい。

「芦別健夏山笠の意義とは何か」

今年は、芦別で山笠を始めて40年目にあたることから、「芦別健夏山笠の意義とは何か」と題して、この40年の間に、博多祇園山笠振興会、福岡市博物館などからご指導をいただきながら築き上げてきた芦別健夏山笠の意義と伝統について改めて記します。

芦別健夏山笠は、会則の目的に「博多祇園山笠及び博多祇園山笠振興会に倣い」と規定してあるとおり、博多祇園山笠の手法や仕来りを踏襲して行事を行っています。
出来得る限り厳格に踏襲してきたことで、博多祇園山笠振興会から全国で唯一「兄弟山笠」として認められているのです。

博多祇園山笠の起源は、784年前に博多で疫病が蔓延したとき、承天寺の開祖で当時の住職である聖一国師が、町民に担がれた木製の施餓鬼棚に乗って、水を撒きながら町を清めて回り疫病退散を祈願したことを発祥とする説が有力とされています。
一方、芦別には樹齢1700年と云われる「黄金水松」があります。アイヌの人々から、病気になると快復を祈り、災難が及ばないようにする樹木として崇められていたと伝わっています。
芦別健夏山笠振興会では、この二つの事柄を融合して、芦別健夏山笠を市民の「無病息災」を祈り「黄金水松」に奉納する行事と位置付けています。

芦別健夏山笠は、この様に奉納行事と位置付けていますので、若松取りで御神入れした「若松」を山笠に据えた時点で、山笠は御神体となります。
御神体となった山笠を舁くには、清められた姿、すなわち、締め込み、水法被の姿でなければなりません。博多では、さらにお汐井で清めます。
奉納行事の山舁きで直接山笠に触れる舁き手は勿論ですが、時計係など山笠に直接触れない方々についても締め込み、水法被姿での参加としており、舁き手と区別するために当番法被を羽織ることとしています。

山笠の巡行経路についても、山舁きは奉納行事ですから、市民の「無病息災」を祈るという目的を掲げて設定しています。
「祝儀山」については、「追い山」が通らない当番流の区域を舁くこととしていますし、「追い山ならし」については、追い山経路の短縮が基本です。
そして、最も重要な山舁き行事である「追い山」については、「舁き出し」から「廻り止め」までの間で、全ての流の区域を回ることとしています。
したがって、これから逸脱するような巡行経路の変更はできません。

芦別健夏山笠の意義と伝統については、各流の役員にもしっかりと理解してもらい、若手を指導してもらう必要があります。

以前、福岡市博物館の学芸課長だった福間祐爾氏が、山笠の調査で博多の赤手拭に「なぜ山笠をやっているのか」と尋ねると、全員が「神事やからね」と答えたそうです。神事の意義をしっかりと受け止めているので、「やらなければならないこと」と「やってはいけないこと」を明確に認識して行事に参加しているとのことです。

また、博多祇園山笠振興会第7代会長の後藤久義氏からは、「山笠(やま)は明るく楽しくぞ! それが山笠(やま)たい!!」との言葉をいただいております。数十年間に渡って博多祇園山笠を中心で支えて来た方だからこそ言える、山笠の本質の部分だと思います。

芦別健夏山笠を末永く続けていくには、これまで築き上げてきた奉納行事としての意義と伝統をしっかりと守りながら次世代に引き継ぐとともに、誰もが明るく楽しく参加できるよう取り組んでいかなければなりません。

芦別健夏山笠は、一本のテレビ番組の映像を手掛かりに、山笠の構造も舁き方も分からない状態から始まった。当初は映像を繰り返し見ながら試行錯誤する「見よう見まね」の山笠だったが、平成元(1989年)年に実際の博多祇園山笠を目の当たりにしたことで、「やる以上は厳格に博多の山笠を行う」という考えへと変わっていった。

そこから、単に山笠の姿や舁き方を似せるだけではなく、組織、拠り所、紋、衣裳、手拭い、行事、しきたりに至るまで、博多の山笠に近い形を目指すようになった。その一方で、黄金水松や若松取りのように、博多の仕組みを芦別の歴史や土地に合わせて置き換えることで、芦別独自の山笠を形作っていった。

当初は関谷氏らが意図的に作った祭祀上の位置づけであったとしても、「奉納行事」として毎年繰り返され、次の世代へ伝えられていくことで、それは芦別健夏山笠固有の「伝統」となっていったのである。

博多祇園山笠から正式に「北の山笠」と認められたのは、もう少し先の平成4(1992)年。どのようにして博多の山笠から正式に公認されたのか、その公認にまつわるエピソードは、また別のお話。

こうして平成2年(1990年)から奉納神事として齋行されるようになった芦別健夏山笠は、令和11年(2029年)に振興会創設40周年を迎える。
もう40年、まだ40年。江戸期に生まれた数々の「ハカタウツシ」の祭りから見れば、芦別健夏山笠はまだまだ“成熟途中”なのかもしれない。
「北の山笠」の奉納神事は、これからも続いていく。

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