流の紹介・山小屋マップ

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山笠ナビ流の紹介・山小屋マップ櫛田神社2013年 櫛田神社

2013年 櫛田神社

飾り山(表)

標題

剛弓一箭源為朝

(ごうきゅういっせんみなもとのためとも)

保元元年(1156年)京都では崇徳上皇と後白河天皇の勢力争いが起こり、上皇方に源為義・為朝、天皇方に源義朝・平清盛と分かれて衝突が起こりました。
為朝が守る西門に清盛の郎党である伊藤景綱とその子忠清、忠直が攻めてきました。為朝は「清盛でも役不足なのに、お前達では相手にならぬ」と叱咤しました。景綱は怒って「下郎の矢が立つか立たぬか受けて見よ」と矢をはなつが為朝はものともせず、「相手にならぬが、勇気をたたえて矢を一筋賜ろう。今生の面目、死後の思い出にせよ」と為朝が大矢をはなつと、矢は忠直の胸をつらぬき勢いあまって後ろの忠清の鎧の袖の裏まで突き刺さりました。一軍はあっと驚いて進む者はなく、清盛は恐れて撤退しました。
その後為朝の兄である義朝は郎党の鎌田政清に為朝を攻めさせるが、かなわず逃げ出してしまいました。
義朝は200騎の軍勢を引き連れて進軍し、「この門を守る者は誰ぞ、われは源義朝、大将軍の勅命を受けておる、我が源氏の一族ならば、陣をひらいて退散せよ」と大声を上げるが、為朝は「こちらは上皇の院宣を受けている」と言い返しました。義朝は「兄に向かって矢をひいては神仏の憎しみを受けるぞ」と言うと、為朝は「では、父君の為義に弓を引くとはどういうことか」と言い返し、義朝は言葉に詰まってしまいました。
この飾り山笠は弓の名手の源為朝が保元の乱で上皇方として戦局不利のなか勇猛果敢に戦う一場面であります。

[人形師:田中比呂志]

飾り山(見送り)

標題

神武東征熊野譚

(じんむとうせいくまののたん)

神倭伊波礼琵古命(後の神武天皇)は、初めて后の阿比良比売と共に日向国(宮崎県)の高千穂宮に住んでいましたが、東方に日本国内を平定し治めるための都をつくろうと兄弟達と話し合い、大和国(奈良県)へ向かいました。
しかし、その途中で大和の豪族の迎撃にあい、撤退を余儀なくされ、更に兄が戦死してしまいます。
この戦いの敗因として、兄が死の間際に「我々は日御子(天照大神の子孫)でありながら、日に向かって(東を向いて)戦ったことが良くなかった」と遺した言葉に従い、進路を変え熊野から北上して日を背にして(西を向いて)大和へと進軍しました。
そして熊野の村に着いたとき、大きな熊が現れ、その毒気によって神倭伊波礼琵古命とその軍隊は急に気を失ってしまいました。このとき、熊野の住人が天照大神より神倭伊波礼琵古命を助けるために下された剣を携えて現れ、この剣を神倭伊波礼琵古命に献上したところ、たちまち目を覚まし、この剣によって熊野の荒ぶる神たちは自然と皆斬りたおされました。
そして天照大神から使わされた八咫烏の導きによって吉野川の川尻に着き、そこから更に大和の宇陀の地へ進み、この地を支配する兄宇迦斯と弟宇迦斯という兄弟を従わせるために呼び寄せましたが、兄は来ずに弟だけが来ました。弟迦斯は兄が神倭伊波礼琵古命を暗殺しようとしていることを知らせ、神倭伊波礼琵古命は部下にこれを討たせて、無事に東征の軍を進めることができました。
この飾り山笠は、神武天皇が日本の国内を平定し、国を治めて初代天皇として即位する迄の「神武東征」の一場面であります。

[人形師:田中勇]

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