流の紹介・山小屋マップ

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山笠ナビ流の紹介・山小屋マップソラリア2014年 ソラリア

2014年 ソラリア

飾り山(表)

標題

賤ヶ岳之大決戦

(しずがたけのだいけっせん)

天正10年6月27日山崎合戦の後、本能寺の変で明智光秀によって倒された織田信長の後継者を決めるため、信長の重臣たちが尾張清州城に集まり、清州会議が行われました。羽柴秀吉は集まった家臣団の中でも優位に立ち、信長の嫡孫三法師(秀信)を後継者と決めましたが、信長の三男信孝を後援していた羽柴勝家との間でしこりが残った事により天正11年4月20日、21日に賤ヶ岳合戦が起こります。秀吉はこの賤ヶ岳合戦に勝利し天下統一の道を確実なものにし、地位を不動のものとしました。
場面:賤ヶ岳における加藤清正、山路将監の組討ち
賤ヶ岳において「加藤清正一番槍」と名乗り、片鎌の大身の槍をひっさげ、清正は群がる敵の真只中へ。清正はあたる敵を次々と突きまくったため討たれるもの多数。清正は敵の首級を藤蔓に結びつけ敵将を物色中、清水口にて敵の猛将山路将監を見つけ出します。敵としては不足なし、「将監いざ参れ」と槍を捻って繰り出せば、将監もさるもの互いに虚々実々の秘術を尽くしましたが勝敗は決しません。豪気な清正が槍を打ち捨て将監に組み付き、互いに揉み合う中、清正の兜が躑躅の大株に引っかかります。あわや将監逃げようとしましたが、清正首が切れるか兜がとれるか運は試しとばかりに、逃げる将監に組みついたその時、清正の兜の緒が切れました。上になり下になり組み付きながら谷間に落ち、尚も必至の組討ちで清正の力が将監に勝り、遂に清正は将監の首を落し功名を挙げました。

[人形師:置鮎正弘]

飾り山(見送り)

標題

大宰府花咲筑紫万葉

(だざいふにはなさくつくしまんよう)

わが国最古の歌集である『万葉集』は、仁徳天皇の時代から天平宝字3年までの4500首あまりを全20巻に収録しています。選者については諸説がありますが、現在の形に近いものに整えたのは大伴家持(おおとものやかもち)と考えられています。その中で大宰府を舞台にして詠まれた歌が200首あまりあります。当時の大宰府には家持の父である大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人、筑前守・山上憶良、造観音寺別当・沙弥慢誓(しゃみまんせい)、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)らをはじめとする万葉集を代表する歌人が集まり、彼らの生活圏にちなんで「万葉集筑紫歌壇(まんようしゅうちくしかだん)」と呼ばれています。
天平2年正月13日、大宰帥大伴旅人の館に32人の大宰府や九州諸国の役人等が集まり、咲きはじめた梅をテーマに歌を詠む宴である「梅花の宴(ばいかのえん)」が開かれました。宴のテーマとなった梅は、当時は白梅のみで、中国から渡ってきたばかりの珍しい花でした。それを中国の歌宴の形式で和歌を詠むといったところに、大陸文化がいち早く伝わってきた大宰府の特色があらわれています。大伴家持は当時12歳位で、父に従い大宰府にいましたが、大宰府で母を亡くし、西下してきた伯母の大伴坂上郎女に育てられたとされています。大宰府で多感は時期を過ごした家持は、大宰府が置かれていた国際的な政治情勢による当時の世情をもって体験しており、『万葉集』には東国から徴集され、遠く筑紫の地で国土防衛に当っていた防人の歌が数多く載せられています。

[人形師:小嶋慎二]

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