流の紹介・山小屋マップ

NAGARE INFO & YAMAGOYA MAP

山笠ナビ流の紹介・山小屋マップソラリア2013年 ソラリア

2013年 ソラリア

飾り山(表)

標題

黒田決戦石垣原

(くろだけっせんいしがきばる)

黒田長政が徳川家康と行動をともにしていた頃、黒田官兵衛孝高(如水)は九州・豊前国中津城にいました。
当時の九州の政情は黒田氏と加藤清正を除くと西軍一色でありましたが、城主は上方に出陣し、多くの城は留守居が守っていました。
孝高は上方で関ヶ原合戦が行われようとする報を受けるやただちに挙兵し、九州平定に動き出します。まずは小大名が多く配されている豊後を抑えて自領の背後を固めようと考えました。
しかしそこへ、朝鮮出兵で敵前逃亡したため秀吉の怒りを買い改易されていた大友宗麟の子、豊後国の旧主大友吉統が旧領奪還に燃え、家の再興を賭して西軍として挙兵。
関ヶ原合戦の二日前に当たる慶長5(1600)年9月13日、孝高は豊後国石垣原(元大分県別府市)において大友軍と対戦します。この戦いが九州における関ヶ原合戦ともいえる石垣原合戦です。
孝高は実相寺、大友吉統は立石に陣を敷き、ここに広がる石垣原にて七度にわたり戦ったと言われます。この合戦で井上周防之房は、旧知の間柄であった敵の主将吉弘加兵衛統幸を討ち取り、如水の勝利に貢献しました。
大友吉統を撃破した後、黒田官兵衛孝高は豊前・筑前・筑後・肥後と九州を席巻しました。

[人形師:置鮎正弘]

飾り山(見送り)

標題

呑取名槍日本号

(のみとるめいそうにほんごう)

黒田二十四騎の一人に数えられた身の丈六尺豊かな勇猛の武士、母里太兵衛友信は、ある時、豊臣秀吉の家臣である福島正則の酒宴に招かれ、京都伏見の屋敷を訪れました。
福島正則は大きな盃を取り出し「この盃で酒を飲め」と迫りました。「飲めませぬ」と誇示する太兵衛でしたが、「飲みほせば何でも望みの物をとらせるぞ」という正則の言葉にとうとう断りきれず、その盃で酒を飲みほし、福島正則が豊臣秀吉から与えられ秘蔵にしていた名槍日本号を所望し貰い受けたと伝えられています。
母里太兵衛友信は、関ヶ原合戦の折りに、この名槍日本号を携えて大坂から黒田如水と長政の夫人を大坂から脱出させたと伝えられています。
その後の名槍日本号は、慶長の役で太兵衛の窮地を救った、母里太兵衛友信と並び称される豪傑、後藤又兵衛基次のもとに渡ります。 名槍日本号は総長3メートルをこえる長い槍で、刃の長さは、79.2センチ、平三角の直刃で、三鈷剣にからみつく倶利伽羅竜が彫ってあり、柄は光り輝く螺鈿で覆われた大変美しい槍です。現在は福岡市博物館に展示されています。
関ヶ原合戦に大功のあった母里太兵衛友信の主君黒田長政が、筑前国を拝領したのは慶長5(1600)年のこと。長政と父如水は、はじめ福岡市東区の名島城に入りましたが狭小であったため、新たな城を築くこととしました。長政と如水は、いくつかの候補地の中から最終的に福崎(現在の福岡城跡)の地を選び、慶長6年から7年がかりで、総面積24万坪、。47の櫓、10余りの城門をもつ堂々たる城を完成させ、先祖の地、備前国邑久郡福岡(現岡山県瀬戸内市長船町福岡)にちなんで「福岡城」とし、城下を「福岡」と名付けました。
黒田家が当地の藩主とならなければ現在の「福岡」の地名は誕生しなかったのです。

[人形師:小嶋慎二]

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