弘治2年(1556)播磨(兵庫県)生まれ。幼名を万助、俗名を友信、長じて太兵衛。後に但馬守と称す。黒田孝高(官兵衛・如水)・長政父子に仕えた(孝高より10歳年下、長政より12歳年上)。
孝高が天正6年(1578)、荒木村重のために有岡城(兵庫県伊丹市)で1年間にわたり幽閉された際には、栗山利安や衣笠景延等とともに孝高室光姫(照る福院)に忠節を誓う起請文をササゲ、孝高の救出に奔走した。
太兵衛は酒豪で知られ、福島正則に進められた大盃の酒を見事飲みほし、正則から大身槍 名物「日本号」(福岡市博物館所蔵)を手に入れたことは有名である。このため「日本号」を別名「呑み取りの槍」と称する。このエピソードをモチーフにしたのが民謡「黒田節」である。
酒は呑め呑め、呑むならば
日の本一のこの槍を、
呑み取るほどに、呑むならば
これぞまことの黒田武士
福岡県伝統工芸品「博多人形」の武者物を代表する「黒田武士」のモデルにも採用されている。大きな盃とともに抱えられた長大な槍が「日本号」である。博多駅前に箱の銅像が建てられている。
「日本号」は刀身全体に大きく樋を掻き、樋の中には三鈷柄剣に巻き付いた龍が今にも剣先を呑み込もうとする姿が彫られている。これを倶利伽羅紋といい、不動明王を表している。
天下分け目の関ヶ原の戦に際し、太兵衛は孝高・長政の夫人が爾志郡・石田三成方に人質に取られるのを避けるため、大阪から当時の領地であった豊前中津城(大分県中津市)まで無事に脱出させ、その後は、孝高に従って九州各地を転戦して所々の城攻めで手柄を立てた。関ヶ原の戦の戦功で黒田長政が筑前の太守となると、一万八千石を与えられ、鞍手郡鷹取城(直方市・福智町)を預けられ国境の守りに就いた。慶長11年(1606)後藤又兵衛が逐電した後は、又兵衛に代わり嘉麻郡大隈城(嘉麻市)を守備した。元和元年6月6日没、享年60歳。法名麟翁紹仁。
[人形師:宗田智幸]