博多を代表する伝統工芸のひとつ『博多織』。
博多の様々な場所でデザインに使われている博多織、実は山笠の歴史と重なるところがあったことをご存知でしょうか。
今回取材させて頂いたのは、6月9日(月)~10日(水)までマリンメッセ福岡で開催されている『第10回 福岡ギフト・ショー』に出店されている森博多織株式会社さんのブースです。
ブースの前には、恵比須流 横町の長法被が。
「これを見て、山笠に私も出てるんですよ!と言ってくれる方が結構います」
森博多織株式会社の森 議夫さんは、恵比須流の横町より山笠に参加されています。
山笠と博多織に熱い想いを持ってらっしゃる森さん。山笠帯を通じ、博多織・博多帯の新しい魅力や可能性を提案しています。
紹介して頂いたのが、山笠の長法被を着用する際に使用する山笠帯。 これは、帯の裏表どちらとも織るという高い技術を駆使した博多織を使用したもの。
裏表どちらの柄を使ってもよしの”リバーシブル”な帯で、この博多織を使用したバッグも展示されていました。
博多織は、すべて「絹」で織られています。 博多織の特長は「締まり具合」。特に博多帯の締め心地は大変好評で、締める際には絹鳴りする心地よさがあります。
博多織の歴史を紐解くと、博多祇園山笠と縁が深い事が分かります。
博多織は、1235年に満田弥三右衛門が、弁圓和尚(聖一国師)と共に宗(南宗1127〜1279)へ向け博多を出発。6年間滞在し、織物、朱焼、箔焼、そうめん、じゃこう丸の5つの製法を修得して、1241年に満田弥三右衛門、弁圓和尚は博多に帰国します。
一方、山笠の歴史を紐解くと、博多で疫病が流行した際に、承天寺の開祖・聖一国師が町民が担いた施餓鬼棚にのって、祈祷水を撒きながら町を清めてまわり、疫病退散を祈願してまわったことが発祥と言われるお祭りで、この祈願して回ったという記録があるのが1241年。
共に、1241年に始まりの起源を持つ博多の二大文化は、2014年の現在もなお、その歴史を脈々と受け継いでいます。
江戸時代に、筑前藩主・黒田長政(1603~1623年)が、幕府への献上品として博多織を献上した事により、博多の地名と共に『献上博多』として広く知られるようになりました。
当時、博多織は男帯が主流で『刀を差しても緩まない帯』という高品質さが評判となり、女性用の召し物も作られたとの事。お城には女性の年齢などが記された帳面が残されており、それに合せて発注していた、という記録が残っているそうです。
(ただ、その評判の良さから『博多織』という名を付けた粗悪品が増えたため、黒田家は献上品の品質保持を理由に職人を限定することで品質を維持したそうです)
また博多の商人は、江戸や上方にも博多織を売り込み、特に高い評価を受けたのが歌舞伎の世界。歌舞伎役者の市川団十郎と岩井半四郎に「夏祭浪花鑑」で博多帯を締めて演じてもらった事から歌舞伎でも多く使われるようになり、歌舞伎だけではなく民衆にも大変人気を博したそうです。
現在は、和服の帯はもちろんの事、バッグや小物など様々な物にチャレンジする森博多織さん。
紹介して頂いたのは、”博多織屋さんが作った「博多つや肌」”というミトン&スキンタオルは、絹100%で作られたミトンとタオル。
「絹」というと肌触りが滑らかな印象がありますが、それは生糸に含まれる「セシリン」を取り除いたため。 このセシリンには、美肌効果と保湿性が優れた成分が含まれており、この点に注目して研究開発した織物だそうです。
絹糸をパイル状に織っており、触ってみるとちょっと固めの生地の感触を感じます。 しかし、水に濡らした途端、とても柔らかくなり密着度が高くなります。
「柔らかくなるから、皮膚の余分な角質とか汚れとかがよく取れるんですよ」
時代は変わり文化が変わっても、新しい形を模索する。
それは時代と共に祭の形を少しずつ変えてきた博多祇園山笠の歴史と同じように感じます。
その技術を伝えながら時代にあった物を提案していく現在の博多織を見ながら、山笠と共に始まった歴史の深さと懐深さを感じました。
森博多織株式会社
〒811-2109 福岡県糟屋郡宇美町桜原3丁目4-7
TEL 092-932-0577 / FAX 092-932-0607
第10回福岡インターナショナル・ギフト・ショー2014
期間:2014年6月9日(月)・10日(火)・11日(水)/10:00~17:00
※11日(水)のみ一般入場可能
場所:マリンメッセ福岡(福岡市博多区沖浜町7-1)