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織田信長が褒め称え豊臣秀吉が頼りにし、徳川家康が恐れた戦国最強の軍師黒田官兵衛。如水と号して水の如くしなやかに生きあくまで信義を貫き通したその姿に敵さえも信頼を抱いたという。秀吉は官兵衛に九州征伐を命じ根白坂の戦いで島津義久を撃退した。
黒田官兵衛(黒田孝高・出家後に黒田如水)は天文15年11月29日に黒田職隆の嫡男として播磨国の姫路で生まれた。
戦場では常に合子形の兜(朱塗合子形兜)を着けていた官兵衛は赤合子と敵に恐れられていた。豊臣秀吉は近臣相手に『自分の死後、天下を取るのは官兵衛だ。あの者の知略をもってすればわしらから天下を奪うのはたやすい』と語った。又、官兵衛は『地方主権の思想』を持っており中央集権を理解しつつ地方に住む民がいかに住みやすくなるかを常に考えていたとされる。
福岡には黒田家、福岡城にゆかりのある場所がたくさんあり是非ご興味をお持ちいただければ幸いです。
[人形師:田中比呂志]
黒田官兵衛、長政と共に播州から福岡城の鬼瓦の瓦師として博多入りした正木宗七は、瓦町(博多)に住み瓦の粘土で人形を作って長政に献上したのが博多人形の初めである。
黒田官兵衛とともに暮らしを扶けた匠の集団、御用職、桧物師、紺屋、白銀屋、畳屋、船大工、大工、亦大工、金具師、瓦師、鉄砲師、研師、切附師、萬細工屋、桶屋、白土屋、柄巻師、萱師、菓子屋、乗物師、表具屋、塗師、弓師、鎧師、象眼師、その中で瓦師七家(播磨者)は黒田家を築城普請と共に優遇された家筋集団であった。
黒田筑前五十二万石の藩祖となった時に博多の南側に新たに土地と与え『瓦町』と名付けた。そして丁役免除の『禄』を与えられていた。
その鬼瓦の名手として宗七は城瓦の粘土で人形を作り長政に献上したのが博多人形の初めである。その後中の子家、白水家と共に博多人形の祖を築き博多の産物を生み出した。
また四代宗七幸弘は聖福寺の仙崖和尚とは最も親交厚く宗七は陶製の仙崖和尚像を作った。博多祇園山笠の発祥の地でもある承天寺の塔頭である人形堂禅勝つ院に安置される。
大心円願和尚も四代宗七幸弘の作品である。その他、数々の寺社に仏像や作品が収めてある。
[人形師:田中勇]
7/1 (月) |
7/9 (火) |
7/10 (水) |
7/11 (木) |
7/12 (金) |
7/13 (土) |
7/14 (日) |
7/15 (月祝) |
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当番町 お汐井取り |
全町 お汐井取り |
流舁 | 朝山 | 他流舁 | 追い山 ならし |
集団 山見せ |
流舁 | 追い山 |
舁き出し 14:15 山列入り 14:35 櫛田入り 16:35 |
舁き出し 3:15 山列入り 3:35 櫛田入り 5:35 |
※お汐井取りの時刻は、石堂橋の出発時刻