櫛田神社境内、東長寺前、承天寺前の「清道」に立てられる旗。
舁き山笠は、この清道旗を旋回点として180度旋回。ヘアピンカーブを描きながら、疾走していく。
櫛田神社に清道旗が立てられるようになったのは江戸時代末期の嘉永元年(1848年)。それまでは櫛田入りの際は標示が無く、旋回点が不明確だったため言い争いが起きることもあったのだが、下東町(東流)の提唱によって「清道」が設けられ、各流が同意。この旗を立てることでそれが収まった。清道旗に「下東町」と書かれているのはその由縁であり、現在も櫛田神社の清道旗は下東町が管理しており、7月1日の早朝に設置しており、7月15日の鎮めの能が終わった後に片付けられている。
現在の旗は4代目。初代は昭和20年(1945年)の福岡大空襲で焼失するも、昭和32年(1957年)に新調。1980年に2代目、1999年に3代目の旗に新調され、今に至っており、2代目・3代目は未だに保存されているという。
櫛田神社の境内には「清道」と名が彫られた石板が埋めてあり、この場所に清道旗が立てられる。
結構勘違いしている人が多いのだが、このプレートの上に立てているのではない。この石板の下には支柱を立てる角柱状の穴があり、そこに支柱の木柱を立て、動かないように車止めのような木片をかませた後、玉垣を何重にも積んで清道旗を固定している。
なお、7月はこの場所に清道旗が立てられているが、4月末には鯉のぼりが立てられ5月下旬ぐらいまで鯉のぼりを楽しむことができる。
その他にも、2016年『博多祇園山笠』がにユネスコの無形文化遺産に登録された際は登録を祝う幟が立てられた。
東長寺と承天寺も、櫛田神社の清道設営に倣って清道旗が立てられるようになったという。元々舁き山笠は、承天寺と東長寺の門前まで舁き入れて表敬する習わしになっていたのが、スピードを重視するあまりにその習わしを疎かにする流も出てきたため、舁き入れを促す目印となったらしい。明治26年(1893年)以降は昇き込みが省略されることはなくなったという。
承天寺の清道旗は、承天寺門前に建てられる清道旗は、承天寺清道会が管理・保管しており、承天寺が地区にある東流の駅前が毎年7月9日の午前中に清道旗を設営している。設営後は、承天寺の住職が旗をお祓いする”神事”が行われる。
承天寺前の道路には清道旗の場所を示すプレートがあり、1枚は清道旗を立てる場所に、もう1枚は歩道側に位置を示す形で埋め込まれている。
東長寺の清道旗は現在、振興会が設営・保管している。
清道旗のルーツは、室町時代から江戸時代にかけて朝鮮から日本へ派遣された外交使節団「朝鮮聘礼使(朝鮮通信使)」にあると見られている。延享5年(1748)頃に羽川藤永が描いた「朝鮮通信使来朝図」には、行列の先頭に「清道」と書かれた旗を持つ従者や馬上の従者が描かれている。また貿易船の船首にも無事を祈る清道旗が翻っていたという。
愛知県岡崎市で開催される家康行列でも、朝鮮通信使の行列を再現する際は、行列を「清道」の旗を持つ従者が先導している。
朝鮮通信使は、15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から豊臣秀吉に向けても派遣されたという記録がある事から、その文化が採り入れられた可能性があると見られている。