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博多祇園山笠用語辞典 YAMAKASA DICTIONARY

中洲流(なかすながれ)

那珂川と博多川にはさまれた地域の5ヶ町で構成している流。戦後に誕生した流の一つ。
昭和20年6月19日の福岡大空襲で博多が焼け野原と化し山笠どころでなくなった時、復興の手助けになれば・・・と中洲に住む人々が立ち上がり、独立した山笠を建てて舁いた。その熱意が認められ、昭和24年に結成された博多祇園山笠振興期成会に最初から加盟。以後、今日まで舁き山笠、飾り山笠を奉納している。
地元に住む住民は少ないが、各店のオーナーや従業員、山笠に出たいと志願したお店のお客さんなどを加えて流を形成している。

中洲流の歴史

江戸時代、中洲一帯は菜の花やカボチャが実るのどかな土地だった。幕末、福岡藩が東中洲に西洋式の藩精煉所などを立てて市街地化が進む。
幕末から明治にかけて文明開化とともに東中洲は急速に発展。明治、大正を経ると、明治座や川丈座、九州劇場といった芝居小屋が並び演劇の中心となり、同時に料亭、飲食店、券番、待合などが作られ西日本一の歓楽街へと姿を変えていった。さらに時代が流れると、文化人が通うモダンなカフェも登場。時代と共に区域は広がり、映画館が多数登場する。一時期は十館以上もあったという。今は色々な業種で見られる「オールナイト営業」という営業スタイルが生まれたのも中洲の映画館からである。
時代は変わっても華やかさは今も変わらず、今はネオン輝くスナック、クラブ、飲食店、遊興施設が集まる西日本有数の歓楽街として賑わっている。

古くから加勢町として山笠に参加しており、大正14年(1925年)の一番山笠に参加した記録が残っている。
終戦後間もなく、流結成の機運が高まり、昭和24年(1949年)、博多祇園山笠振興期成会の総会で正式に発足した。
そもそも東中洲には東中洲1丁目から14丁目の番地方式で呼ばれる公称があるのだが、作人町、千日前、芳町、人形町、新橋町といった通称名の町名が使われることが多かったため、この町名で当番を担当することとなった。
福岡市の町界町名整理事業により中洲一丁目、中洲二丁目、中洲三丁目、中洲四丁目、中洲五丁目、中洲中島町に整理されたが、中洲中島町旧福神流に属していたため、流を再編する事になり、昭和43年に五丁目が当番を引き受け、以後逆回りで当番を回す形となった。
戦後も流の統廃合が行われる中で、戦後の新興ながら期成会結成当時から山笠を建て続けている。

流の地域

黄緑色の地域が中洲流の流区域となっている。

構成町

現在は中洲一丁目、中洲二丁目、中洲三丁目、中洲四丁目、中洲五丁目の5ヶ町で構成されている。

当番町の順番は輪番制。丁目数の逆回りで当番を回している。
よって以下の順番に沿って流の世話を行っている。
(※2024年の当番町・中洲一丁目を先頭にして表記し順に並べるものとする)

  • 中洲一丁目
  • 中洲五丁目
  • 中洲四丁目
  • 中洲三丁目
  • 中洲二丁目

中洲流 法被一覧

当番法被、水法被ともに、統一法被を採用している。

長法被
(統一法被)
水法被
(統一法被)

飾り山笠

戦後舁き山笠と飾り山笠が分離が進む中、中洲流は流創立から参加した昭和24(1949)年以来、舁き山笠と飾り山笠共に奉納を行っている。

山小屋は舁き山笠・飾り山笠共に、山小屋の場所は毎年同じ場所に建てられており、舁き山笠は中洲大通り沿いの中洲Uビルのエントランスロビー、飾り山笠はホテルリソルトリニティ博多横に建てられる。

舁き山笠の山小屋の場所

飾り山笠の山小屋の場所

飾り山笠の山小屋が中洲大通り沿いに建てられるようなったのは昭和42年以来。電話局横に建てられていたが、昭和63年に電話局が「エヌ・パサール」というテナントビルになったことで、山小屋が大きくなった。「エヌ・パサール」は改装され、2011年より「ホテルリソル博多」が開業したが山小屋の位置は今も変わっていない。

中洲流の山笠台

山笠台は舁き山笠・飾り山笠共用で使用している。
舁き山笠傘を動かさない時は、飾り山笠の下に山笠台が据えられ、舁き山笠は飾りのみが別の場所で飾られる。
舁き山笠が動く時は、山笠台を飾り山笠の下から引っ張り出し、舁き山笠の飾りを上に乗せている。その時間帯は、飾り山笠の下部分は空洞になっている。
そして舁き山笠が戻ってくると、舁き山笠傘の飾りを取り外し、再び山笠台は飾り山笠の下に戻されている。

これは明治時代、電線が張られて背の高い山笠を舁けなくなったところから考え出されたスタイルである。
その昔は東流も同じスタイルだったが、2019年に飾り山笠が三井ビジネスセンタービルのロビーに移動、代わりに舁き山笠の山小屋が建つようになった事から、舁き山笠・飾り山笠の舁き棒が用意されるようになった事で、この山笠台の使用スタイルは中洲流だけになった。

独自の習わし

  • 中洲流の流舁きは午後4時、他流舁きは午後3時から始まるが、他の流に比べると舁き出し時間が早い。これは夜からの開店前に間に合うために…と仕事に配慮しての事らしい。逆に朝山笠は午前6時と舁き出しが遅い。これもお店の営業を終えてからの準備などを考慮して、と思われる。
  • お汐井取りや流舁きの前の各町集合で手打ちを行う際、手を入れるタイミングで太鼓櫓の太鼓が鳴らされる。舁き山笠の表で手打ちを行った後、そのまま移動して見送り側でも手打ちを行う。
  • 舁き出し直前に、台上がりは御神酒を瓶からぐいっと呑み、山舁きに臨む。
  • 山小屋が完成した後、まだ棒締めを行う前の山笠台の台足に、総務の名前や当番町の名前を筆耕する「筆おろし」を行う。筆おろしはまず総務が最初の筆を入れた後、書道に長けた学校の先生が継いで筆耕を行う。
  • お汐井取りの復路の際、中洲流は他の流と違って西門橋から博多部へ入るようにしている。これは中洲の人形町にある津上蒲鉾店のご子息が、西門中小路にある老舗の蒲鉾屋・西門蒲鉾に婿入りした縁があり、西門蒲鉾への表敬、および西門蒲鉾による歓迎が行われる。
    なお、旧七流時代でいうと、土居流・西町流・東町流・呉服町流は、お汐井取り復路の際に西門橋から博多部へ入っていたのは。中洲流は戦前は加勢町として土居流に参加していた歴史もあり、それにならっているのもあるらしい。
  • 小屋入りの神事を行った後、役員らは福岡市東区志賀島にある志賀海神社に参拝を行う。中洲流の古くからの慣習でレクリエーションを兼ねて行った事が行事に組み込まれたようだ。また2024年からは志賀海神社を参拝する前に、福岡市博多区の住吉神社にも参拝するようになった。
  • 7月1日の早朝、中洲流の役員だけで箱崎浜を参拝している。これは昭和28年に起きた大水害を受けて山笠行事は一部自粛。7月10日のお汐井取り、11日の朝山笠、12日の追い山笠馴らし、15日の追い山笠だけが行われた。この決定を受けて、7月1日の早朝に役員だけが箱崎浜を参拝した事が、今も行事として残っている。なお、夕方の当番町お汐井取りへの参加は当番町判断となっている。
  • 中洲流の参加者で、当番法被の下に水法被を着ている人がいる。これは上記の昭和28年の水害の際、各流から山笠参加者がボランティアで復旧工事に参加した。この経験を受けて、いつでも当番法被を脱いでそういった地域貢献に取り掛かれるようにする、という心構えらしい。

エピソード

  • 昭和27年頃は、他流舁きに於いて、那珂川の向こう側(=天神地区)にある当時の県庁・市役所・商工会議所などを表敬していた。これは昭和37年から始まる集団山見せの原型となる行事と言われている。
  • 昭和45年の追い山において、中洲流は35秒で櫛田入りを行ったと記録があるが、これは中洲流が唯一櫛田入り一位を記録した年となっている。
    「中洲流五十年史」では『なんと!七流のうちの第1位であった。』と驚きを隠せない表現でこの快挙を綴っている。なお、昭和28年の櫛田入りは30秒を切るタイムを出しているが、この年におきた水害のため自粛省略化されたために正式なタイムは記録されていない。
  • 中洲流から有名人・著名人が山笠に参加することが多い。俳優の中尾彬は2004年、2005年と連続してRKBの追い山笠中継のゲストで出演した際、山笠に感動して実際に中洲流に参加した。
    漫才師の博多華丸は中洲四丁目から山笠に参加しており、忙しい中、時間を作っては毎年参加している。NHKの朝の情報番組「あさイチ」では、狙ったかのように山笠期間にキュウリを使った料理の試食が行われ、山笠期間で胡瓜断ちしている華丸が困惑する中、相方の博多大吉が助け舟を出す、というのがお約束となっている。 元プロ野球選手の”熱男”こと松田宣浩は2024年より中洲三丁目から参加。引退した2023年に「山笠に出たい」とテレビで発言して話題になったが、この言葉を有言実行したという形である。
  • 福岡のテレビ番組で、博多華丸が黒地に黒色のニューヨークヤンキース(NY)のロゴが入ったベースボールキャップを着用してたのを、共演者がホークスの帽子じゃないの?とツッコミを入れた際、華丸は「これは中洲(N)四丁目(Y)の帽子たい」と切り返していたが、中洲四丁目にこのような帽子があるかは現時点では不明。

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