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博多祇園山笠用語辞典 YAMAKASA DICTIONARY

海外遠征(かいがいえんせい)

博多祇園山笠は、これまで4度海外遠征を行い、『日本に博多と博多祇園山笠あり』を強くアピールしている。

アメリカ・ニューヨーク市に飾り山笠を展示する計画
【1957年(昭和32年)】

舁き山笠の海外遠征ではないが、戦後間もない1957年(昭和32年)、復興著しい中で輸出振興が重要視され、対米輸出にはまずアメリカ人にアピールする必要があったため、ロックフェラー財団の肝入りで、飾り山笠をニューヨークの中心街に飾る計画が進んだ。この計画は実際には実現する事はなかったのだが、海外へ山笠が飛び出していく機運が高まったといえよう。

ハワイ・ホノルル市「アロハ・ウィーク・フェスティバル」へ参加
【1980年(昭和55年)】

初めての海外遠征は、昭和55年(1980年)9月20日(日本時間21日)、アメリカ国ハワイ州のホノルル市で行われたハワイ最大の祭「アロハ・ウィーク・フェスティバル」への参加で、山笠史上初舁き山笠が初めて海を渡り、水法被と締め込みの博多人が、両地域の友好親善に務めた。

「アロハ・ウィーク・フェスティバル」の目玉であるパレードは「花と音楽」がテーマ。原色の生花で飾られたパレードが続く中、突如登場した勇壮華美な日本の祭りに度肝を抜かれ、ハワイっ子ら約10万人の人気を独占。コンテスト参加団体の中で最高賞に輝いた。

コースはホノルル市のアラモアナ公園からアラモアナ通り、カラカウア通りを経て、カピオラニ公園までの約4.5キロ。沿道は観光客を含めて約10万人で埋まり、この模様は全米に放映された。この様子はテレビ西日本が宇宙中継で、またKBC、RKB毎日は番組を作ってワイキキの浜辺を走る山笠の勇姿の放映を行った。

土地が違うと様々な問題に直面。締め込み姿が祭に適さないという事で紛糾したり、勢い水の調達に困りワイキキの海水を掛けるなど急場を凌いだりするなど様々苦労があったようだ。

事の起こり

このハワイ遠征が、公式に流に伝えられたのは昭和55年1月28日の博多祇園山笠振興会の初総会の席上で、橋渡し役を務める福岡青年会議所の冬至洋一理事長より”ハワイ州の日系青年会議所からハワイのフェスティバルに参加してほしい”という要請を提出、出席者に意見を求めた。一部に「なにもハワイまで」という疑問も出されたが、全体的には好意的。振興会役員も「福岡市のイメージアップに役立つし、国際親善という立派な目的もある」と大筋了解した事で、ハワイ遠征のプロジェクトはスタートした。

ハワイ遠征のプロジェクトには福岡政財界あげて協力。寄せられた資金は、予算を上回る4734万5800円に達したという。

山笠に立ちふさがる様々な”文化的問題”

土地が違えば文化も違う。それは海外であればなおさらである。
ハワイ側との事前協議で、様々な問題が山笠側に立ちふさがる。

持ち上がったのは「水法被に締め込みという衣装」の問題、「パレードの速度と調和するかどうか」の問題。「舁き縄などの縄類の持ち込み」の問題、である。

まず、山笠の締め込み姿にフェスティバル事務局からクレームが付く。締め込み姿がエロチックと指摘された。
またパレードなので他の参加団体とのスピードが合わない事が想定され、「パレードには当番法被を着て舁き山笠の足に車輪をつけて参加」「途中4カ所だけ本来通りに舁く」というという事になった。

そして入国の検疫の関係で、ハワイでは”植物”の輸入を禁止しており、縄を始め「杉垣」に使う杉や玉串用の榊なども持ち込み禁止に。「ハワイで似たものを探す以外に手はない」と考えていた。

「ハワイのカメハメハ大王はふんどし姿ではないか」

上記の問題解決について、ハワイ側との交渉するも、交渉は難航する。
全米にテレビ中継されたあとの反応も気にしてか、アロハ・ウィーク実行委員長のスティーブ・ダルシー氏の返事は決していいものではなかった。

しかし、ここで今も伝わる素朴な名質問「締め込みが外見上よくないというが、ハワイのカメハメハ大王はふんどし姿ではないか」と誰かが言った事で、実行委員長氏の顔が『おや?』というように表情が変わったという。
福岡側の『あなたがアロハ・ウィークという祭りを愛し守ろうとする気持は十分わかる。しかし、あなたのその気持と、われわれが”山笠”の伝統を守ろうとする気持は全く同じものなんです』という熱い言葉に、実行委員長は締め込み姿での舁き山笠を許可が出た。

舁き縄など植物は検疫上、難しいとの返事だったが、事前に送って消毒すればいいとの譲歩を取り付け、縄250本と縄5巻をハワイに事前輸送する事で決着。 禁止となった杉の葉は、代わりに造花を調達して間に合わせることに。しかし玉串用の榊は、VIPの荷物にこっそり忍び込ませ、無事(?)検疫をくぐり抜けた。

11日には樋口武之助博多祇園山笠副会長と山大工の平山隆夫氏ら3人が「先発隊」としてハワイに入ったが、「事前に着いた山笠の資材がなかなか通関しなかった」事で肝を冷やすことに。ようやく通関をパスして、荷を開けると山笠台に取り付ける杉板に虫のくった跡があった跡。係員が日本若武者をノミでコンコンやりはじめた時は「どうなることか、と思った」そうだ。結局その部分をえぐり取ってことなきを得たのだが、今度は荷の中からゴキブリが10匹前後はい出してきた事でさらに場が硬直。丸一日すったもんだした後、州政府に頼んで一件落着した。
後日、樋口副会長は「ゴキブリはもともとアメリカ生まれ。里帰りたい」 と語ったという。

舁き山笠は先発隊のおかげで12日ホノルル入りした人形師の中野親一師、中野浩師が一日かけて飾り付けた。標題は「日本若武者之誉」(にほんわかむしゃのいさおし) 。
御神入れの神事には櫛田神社の阿部邦彦宮司が博多の7月と同様に祓い清め山笠を神格化した。

ハワイを駆け抜ける博多祇園山笠

ハワイ遠征に参加したのは博多祇園山笠振興会関係は本部役員、七流の精鋭140人、それに 「オレがおらんと山笠は動かん」という自費参加の年配者、家族ら、ざっと260人ら。スタート地点のアラモアナ公園では、海に出て「この海は箱崎浜まで続いとるとバイ」と、お汐取りの真似をする人もいたという。

パレードは午前9時半から始まり、博多山笠は午前9時半にスタート。 前述の通り山笠の足に特製の車輪を付けパレードに参加していたのだが、1カ所目の舁く地点が来たとき。 前の騎馬隊との距離は十分にあるのを見て、誰と言うとなく「このまま舁こうや」という事になり、前の出演団体と距離を取りながらほぼ全コースを舁き切った。

ヤシの並木の続くアラモアナ通りから、カラカウア通りに入ると、沿道に設けられたロイヤル・ボックスからいっせいに拍手とどよめきが起こった。締め込み姿に水法被、ねじり鉢巻きの恰好に初めはびっくりした表情の沿道の見物も、あまりの勇壮ぶりに口笛を吹き盛んな拍手を送る熱狂ぶり。 目頭を押えるお年寄りの姿もいたという。 ロイヤル・ボックス前で祝いめでたの大合唱。歌い終わると博多手一本を入れ、ゴールのカピオラニ公園へ。

勢い水不足に困り、ワイキキの海水をかけるなどして急場をしのぎつつ、ゴール地点のカピオラニ公園へ。公園では清道に見立てた大樹の回りをぐるりと回って「櫛田入り」を行い、ハワイでの山舁きを無事終え、大成功を収めた。

この友好関係により、待望の日航福岡ハワイ線が昭和56年6月に開設された。

オーストラリア・ブリスベン市「国際レジャー博覧会」へ参加
【1998年(昭和63年)5月16日】

1988年(昭和63年)、博多祇園山笠振興会にオーストラリア・ブリスベン市で開かれる「国際レジャー博覧会」、およびニュージーランド・オークランド市の「ジャパン・ウイーク」への参加の要請があり、参加することで衆議一決、豪州・NZ遠征が実現した。舁き山笠の披露となると最低でも150人の動員が必要なので、 福岡県、福岡市と相談すると共に好意的。特に福岡市からは「姉妹都市のオークランドも訪問してほしい」との要望を受けた事で、県、市、振興会、福岡商工会議所などで「博多祇園山笠親善使節団派遣実行委員会」が結成された。

昭和63年5月15日夜、博多祇園山笠の舁き山笠七流の選抜メンバー150人を含む博多祇園山笠親善使節団330人は、ジャンボ機をチャーターしてオーストラリアのブリスベンへ。
なかなかのタイトなスケジュールがここから開始。16日早朝にブリスベン空港に着くと、早速市庁舎前に集合。舁き手は祭り衣装に着替えると、先発隊が準備した舁き山笠(標題「勇壮黒田誉」)に櫛田神社の阿部宮司らが御神入れを行った。神事には女性のアトキンソン市長も参加した。

午後1時20分(日本時間午後0時20分)、 手一本を入れて山笠は市役所前をスタート。ブリスベン市の目抜き通りからブリスベン川に架かるビクトリア橋を渡って、ワールドエキスポ88レジャー博覧会会場までの約2キロのコースを舁き山笠は駆け抜け、国際レジャー博覧会の会場に舁き入れた男たちは、祝いめでたを唱和。最後に博多手一本を入れて締めくくった。

後日行われた座談会によると、オーストラリア&ニュージーランド遠征では、ハワイ遠征で往生した検疫対策が生かされたようで、舁き縄は事前にサウナ風呂に入れて熱処理を行ったり、真空にして窒素ガスを噴霧したという。ただ、サウナに大量に舁き縄を持ち込んだので温度が下がって一般の利用客からクレームを受けたらしい。
また、食事会場が狭く、大人数なのにバイキング料理の前に列を作らなければならず、何より食事が日本人の口に合わなかったため、食事に関する不満が一気に噴出したため緊急ミーティングを開き、二次会どころではなくなったという。

ニュージーランド・オークランド市「ジャパンウィーク」へ参加
【1980年(昭和55年)5月20日】

続いて福岡市の姉妹都市・オークランド(ニュージーランド) 訪問した一行は、5月20日に舁き山笠の披露を同市最大の目抜き通りであるクイーンズ通りで行った。22日まで開催中されたジャパンウイークのパレードの目玉行事に山笠は登場。同市始まって以来の大観衆というほどの人込みだったという。出発地点となった石造りに時計塔という時代をしのばせるタワーホールには鯉のぼりも舞っていたらしい。

標題は「源平誉之扇」。弓を構える白馬にまたがった那須与一の人形がニュージーランドの道を駆け抜けた。
ニュージーランドは晩秋を迎えた季節で、10度近くの肌寒い気候。勢い水の「自粛」の話も出ていたが、次々にかけられたという。

中国・上海市民クルーズ「三都航路2004」へ参加
【2004年(平成16年)】

2004年(平成16年)、福岡市は関係が深まっている韓国・釜山、中国・上海に市民レベルの親善行事「三都クルーズ」 (船による両都市訪問)を開催。山笠振興会の創立五十周年を記念し、その途上である上海にて 舁き山七流の約300人が上海市で山舁きを披露した。 アジアでは初の披露となる。

標題は「英姿颯爽誉」(井上和彦師作)。先導した約100人の博多どんたく隊に続いて、中国の武将と黄金の竜を飾った舁き山笠は、観光客などでにぎわう上海市のメーンストリート南京路を、勢い水を浴びながら約一キロのコースを駆け抜けた。ゴールでは「祝いめでた」と博多手一本で中国遠征を締めくくった。

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