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『真田幸村』(左衛門佐信繁)(さなだ・ゆきむら<さえもんのすけのぶしげ>1568~1616)
戦国時代、信濃北部を支配した真田昌幸の次男。父・昌幸は表裏比興の者と呼ばれながらも、近隣の大名、豪族から智謀・知略に優れた名将であり、武田家滅亡後も北条、徳川、上杉の諸大名と対等に渡り合い、北関東から信濃にかけて豊臣政権下でその勢力を拡大しました。
幸村は父に従い各地を転戦。関ヶ原の戦いでは豊臣秀吉の恩に報いるため父・昌幸とともに居城である信州上田城にて中山道から中山道から関ヶ原に向かう徳川秀忠軍(後の徳川幕府二代将軍)の大軍を迎え撃ちこれを翻弄。秀忠は遂に関ヶ原本戦へ間に合いませんでした。
奮戦むなしく、敗れた西軍に味方した昌幸・幸村親子は、紀州・九度山に配流となり、苦労の多い蟄居生活を余儀なくされました。
十四年の月日が過ぎ、ついに徳川家と豊臣家が袂を分かつ時が到来。世にいう「大坂の陣」が起こります。幸村は筑前黒田藩を出奔し諸国を流浪していた後藤又兵衛(基次)や他の豊臣恩顧の武将等と総大将・豊臣秀頼の居城である大阪城に入城。冬の陣では南の大地に砦「真田丸」を築き徳川の大軍を撃破するなど獅子奮迅の活躍をみせ、「真田丸」が取り壊された後の夏之陣では、徳川本陣に向けて決死の突撃を敢行、家康まであと一歩のところまで迫ったと伝えられています。
後藤又兵衛も小松山の戦いにおいて、僅かの兵で徳川方の伊達正宗ら歴戦の武将たちを大いに苦しめました。徳川の大軍を前にして敗れたものの、「日本一の兵」とまで賞され、その勇名は後の世に長く語り継がれています。
[人形師:生野四郎]
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[人形師:田中勇]