博多祇園山笠の歴史 YAMAKASA HISTORY

博多祇園山笠の由来

760余年の伝統を誇る「博多祇園山笠」は、福岡市博多区のおもに博多部(那珂川と御笠川間の区域)で7月に行われる祭で、博多の総鎮守・櫛田神社にまつられる素戔嗚尊(祗園宮)に対して奉納される神事であり、国の重要無形民俗文化財でもあります。

山笠の起源

博多祇園山笠の起源は諸説ありますが、一番有力とされているのが、鎌倉時代、仁治2年(1241年)博多で疫病が流行した際に承天寺の開祖・聖一国師(円爾)が町民が担いた施餓鬼棚にのって、祈祷水を撒きながら町を清めてまわり、疫病退散を祈願してまわったことを発祥とするという説です。

古い書物にもいくつか承天寺と山笠との関連性を立証する記述が見られ、清道を設けて山笠を奉納するのは、その時のお礼参りなのだと言われています。
他にも、この説には、現在の山笠との類似点が多く見られ、山台と施餓鬼ととがよく似ていること、車輪のついた山車ではなく、車輪なしの台をかつぎあげて走り回るスタイルであること、”祈祷水”が”勢い水”に転じたのではないかと考えられることなどがあります。

町の組織”流”の起源

現在の山笠の基となっている「流」ができたのは、豊臣秀吉による天正15(1587)年の「太閣町割り」が起源と言われています。

秀吉が町割りをするきっかけとなったのは、当時、大陸貿易の基地として大いに栄えていた博多の支配権をめぐって様々な大名達が博多の町を戦場として戦った結果、博多の町が焼け野原になりました。
中でも天正4年(1576年)、島津義久が博多を撤退する際に町に火を放って全市を焼き払って薩摩に逃走。これを追いかけた秀吉が島津を降参させて博多に戻り、博多の復興に乗り出し、その手始めが区画整理としての町割りでした。

太閤町割りは、まず、区画整理の基準となる筋を決めることから始められ、太宰府の方角を流れの上手にして基準線の方角を決め、これが今の大博通りの博多小学校横当たり。現在は「旧下市小路」という石碑が建てられており、博多大商人はこの町筋に集っていました。
東は御笠川、西は博多川を境に、市街は十町(約1キロ)四方と定め、幹線道路を東西に3本、南北に4本走らせ、その一区画を「流(ながれ)」と呼びました。

この「流」が博多祇園山笠のグループ単位の発祥となり、現在は、千代流恵比須流土居流大黒流東流中洲流西流の七流となっています。

現在の七流区域マップ

追い山の起源

かつては町ごとに飾り山の華美を競いながら練り歩いていましたが、江戸時代、一説には貞享4年(1687年)、土居流が東長寺で休憩中、石堂流(現在の恵比須流)に追い越される「事件」がおき、このとき2つの流が抜きつ抜かれつの競争となり、スピードを競い合う「追い山」が始まったとされています。