博多祇園山笠の歴史

YAMAKASA HISTORY

博多祇園山笠の情報なら山ナビ2016!山笠を知る博多祇園山笠の歴史山笠の変遷

山笠の変遷

今年で760余年の歴史を刻む「博多祇園山笠」。
ここまでの道程は決して平穏なものではなく、山笠存亡の危機を幾度にもわたり乗り越えて今日を迎えています。「博多祇園山笠」は、伝統を守りつつも時代に受け入れられるべく伝承されているのです。

仁治2年(1241年)

聖一国師が病魔退散のため施餓鬼棚にのって疫病退散を祈願した。これが有力な起源説とされている。

天正15年(1587年)

豊臣秀吉が九州征伐を行い島津氏を降伏させて九州平定を成し遂げる。
博多の豪商 神屋宗湛と嶋井宗室の協力を得て、「太閣町割り」を行い、山笠の基となる「流」が出来る。

明治5年(1872年)

明治5年、封建制を打破する意図で明治政府によって「博多松囃子」と共に山笠は突然禁止される。
山笠の様相や高さは時代によって変化しているが、明治5年までが最も背が高く、16メートルにも及んだといわれている。

(写真は2013年『山笠の力 ハカタウツシ』展にて再現された明治3年の巨大な舁き山)

明治8年(1875年)

明治5年に出された山笠禁止令が、この年だけ許可が下りる。しかし、許可が下りたのが6月13日の夕方で追い山まで間に合わないため、人形に浴衣を着せただけの簡素な山笠「ゆかた山」が作られるが、翌年より再び禁止される。

明治16年(1883年)

11年ぶりの本格的山笠復興。

明治31年(1898年)

福岡県知事が山笠行事の中止を提議。
中止提議理由に山笠が電線を切断する事故が相次いだことが含まれていたため、実際に運行する3メートル程の「舁き山」と、飾っておくだけの「飾り山」に分化する事となった。
また、明治時代に西洋文化が入ったことにより、舁き手の出で立ちが締込みだけの裸に近いものだったことが野蛮に映った事も中止提議理由にあったため、町側が知恵を絞り「お尻丸出しが悪いなら法被を着ればよい」と全員が水法被を着用して切り抜けた。

明治43年(1910年)

電車架線のため舁き山が低くなり、追い山が新暦7月15日に行なわれるようになる。
(明治5年の改暦以前、追い山は旧暦6月15日に行なわれており、改暦以降は新暦6月にしたり旧暦6月にしたりと試行錯誤が繰り返されていた)

昭和19年(1944年)

映画「陸軍」に出演。

昭和20(1945)年

福岡大空襲。被災面積は3.8平方キロメートル、被災戸数12850戸、被災人口60599人。死者902人、行方不明204人、負傷者1708人。もっとも被害が多かったのは博多地区の奈良屋、冷泉、大浜校区など当時の中心街だった。
この大空襲のため山笠も中止となる。

昭和23年(1948年)

山笠復活。
ただし全コースを舁くだけの人数が足りないため、追い山ならし、追い山とも櫛田入りのみだけだった。

昭和30年(1955年)

博多祇園山笠振興会発足。「博多部外」の新天町等でも飾り山行事が行われる。

昭和37年(1962年)

集団山見せ始まる。「博多部外」である福岡市中心部に舁入れる集団山見せなどが行われるようになった。福岡市が「観光客誘致」「市民的盛り上がり」を目的に要請したもので、万四郎神社前(のち蔵本交差点)から天神・福岡中央郵便局前までの昭和通り約1500メートルを走り、福岡市に舁き入れた。

昭和39年(1964年)

川端通商店街(上川端通)が山笠の分化前の姿を彷彿とさせる「走る飾り山」を復活させ、その後も櫛田入りを奉納し続けている。「走る飾り山」は電線や信号機・標識などに接触しないよう伸縮式になっている。

昭和41年(1965年)

2月1日、博多地区の町界町名整理が実施。博多部は大混乱に陥る。
歴史的にも由緒ある土居流がこの煽りを受けて解散するも、土居流の有志が「土居流保存会」を作って流の歴史を継続。しかし、伝統を誇った呉服町流は解散し他の流に分散した。
この町界町名整理で出来た新しい「町境」を加味して、東町流を中心に東流、西町流を中心に西流が誕生。大黒流、恵比須流、土居流(保存会)は旧町単位で参加した。

昭和45年(1970年)

子供(小学生)が小型の山笠を舁く「子供山笠」も始まる。

昭和54年(1979年)

国の重要無形民族文化財に指定される。

昭和55年(1980年)

博多祇園山笠史上初の海外遠征を行い、ハワイ最大の祭り「アロハ・ウィーク・フェスティバル」に参加。締め込み、水法被の博多人が日本とハワイの友好親善に務め「日本に福岡博多あり」を強くアピールした。

平成14年(2002年)

飾り山や山笠の人形の衣装の生地が、博多織になる。
これまで長年にわたり京都の西陣織を使用していたが、博多人形協同組合と博多織協同組合が「後継者育成の相乗効果が期待できる」と合意し、地元の博多織を人形の衣装の生地に使うようになった。

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