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身の丈六尺半、容貌優れて髭濃く黒田二十四騎中隋一の豪傑、母里多兵衛友信であります。
筑前今様「黒田節」でおなじみの「日本號」は正親天皇、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、福島正則と伝承した希代の名槍です。多兵衛は福島正則が勧めた大盃三杯の酒を見事に飲み干し日本號を手に入れます。
その名槍を手に黒田官兵衛・長政親子を筑前五十二万石を太守に押し上げました。
槍・大盃・刳半月の兜と大きいものずくめの豪勇です。
[人形師:川﨑修一]
戦国時代の名将・真田幸村は父・昌幸と共に、関ヶ原の役で秀忠率いる東軍の主力を引き留め悩ませました。しかし本戦で西軍が破れ、父子共に九度山に流されます。
そして十四年後、家康が最後の決戦に挑んだ大阪の陣の直前、幸村はその子・大助幸昌と共に九度山を脱出、大阪城に入りました。慶長十九年冬、堅固で知られる大阪城の唯一の弱点とみられる南側に小城「真田丸」を築き、これに徳川軍をおびき寄せ、武略戦略をめぐらせて散々に打ち破り天下に武名を轟かせました。
「日本一の兵」のはじまりであります。
[人形師:川﨑修一]
慶長十七年(1612)四月十二日、剣豪宮本武蔵と巌流佐々木小次郎が豊前小倉沖一里の舟島にて命を懸けての決闘を行いました。
小倉の細川藩で剣術の指南をしていた佐々木小次郎の剣名は西国に広く知れ渡っていました。そこに家老の長岡佐渡が推挙する宮本武蔵が果たし合いを願い出ます。
後に巌流島とよばれる舟島での決闘は、三尺二寸の長剣の燕返しの小次郎に対し、四尺有余の櫂の木剣の武蔵。まさに龍虎の対決と云えます。
勝敗は如何に。
[人形師:川﨑修一]